山口県萩市 佐々並宿跡

佐々並宿萩往還の宿場町。
佐々並市佐々並驛とも呼ばれますが、
 このブログでは宿で統一しています。

萩城下三田尻の中間点に位置しており、
藩主が休泊する御茶屋の設置と共に、
駅宿機能を有した宿場として栄えました。
近年に至るまで町並みは変化なく、
伝統的な建築物が残されている事から、
重要伝統的建造物群保存地区に選定。
萩市は重伝建の数が京都と共に、
全国最多の4地区とのこと。


萩市佐々並周辺。緑の線が萩往還で、
青くぼかした辺りが佐々並宿跡。

北側より散策。

久年町」。
佐々並川の北側は
久年町。
かつては茅葺屋根の農家が並び、
人馬送り役を担う家があったという。
現在も家の裏手には納屋があり、
母屋南側に牛馬用の通路が残ります。


佐々並大橋」。
佐々並の中央を流れる佐々並川に架かる橋。
慶安5年(1650)の資料では板橋ですが、
後に土橋に架け替えられています。


中ノ町」。
佐々並大橋を過ぎると中ノ町
左手前の家は旧小林家住宅で、
人馬や駕籠、賃金調達を行う目代所でした。
現在は[萩往還おもてなし茶屋]となり、
佐々並地区散策の拠点となっています。
右手前は安政5年から豆腐製造を始め、
現在で8代目となる土山家
4代土山亀太郎の作る豆腐は、
伊藤博文のお気に入りだったようで、
東京で豆腐を作るよう誘われましたが、
それを断ってここで豆腐業を続けました。
その通路向いの奥は旅館林屋で、
幕末期には多くの志士らが宿泊。
お豆腐料理がおいしい旅館として、
現在も営業しています。
右奥は三浦家で江戸期は土山屋として、
旅館を営んでいたようですが、
昭和33年に三浦家がこれを買い取り、
三浦屋として食料品店となったという。
その奥も食料品店で大津屋
林家の隣は椿家で米や塩、砂糖を扱い、
後に薬や雑貨も売るようになったという。


御客屋跡」。
中ノ町の先に御客屋木村作兵衛邸跡があり、
往還は左に折れています。
御客屋は御茶屋の予備施設だったようで、
家老や役人、他国の使者が宿泊しました。
脇本陣の同様なものですね。


上ノ町」。
左に折れた先が上ノ町
左手前の石田理髪店跡のある辺りが、
もうひとつの御客屋井本弥八邸跡
参勤の際は両御客屋に上級藩士が泊り、
下級藩士や中間らは旅籠に泊りました。
長州内訌戦大田絵堂の戦いの後、
勝利した諸隊勢は佐々並まで進軍。
駐屯する萩政府軍と戦闘となり、
戦火で上ノ町北側の7軒と、
南側の5軒が焼失したようです。
この戦闘にも勝利した諸隊勢は、
南園隊御盾隊を佐々並に駐屯。
清末藩8代毛利元純が佐々並に赴き、
山口撤退を促しますが拒否されており、
世子毛利元徳明木まで出張し、
諸隊及び萩政府軍双方を説得した為、
諸隊勢は山口撤退しており、
萩政府軍も解散するに至りました。


御茶屋跡」。
上ノ町の突き当たりが御茶屋跡。
慶長9年(1604)に毛利輝元に移る際、
この場所にあった長松庵で休憩。
それにちなみここに建てられました。
御茶屋は670㎡の広さになっており、
本館御長屋門御蔵御供中腰掛
仮御馬建2ケ所、御番所があったという、


市頭一里塚」。
左手の市頭一里塚は萩から4番目、
三田尻から8番目の一里塚。
御茶屋前から南へ街道は続きます。

■赤間関街道/萩往還の宿場町

■関連記事■
山口県萩市 萩唐樋札場跡
 赤間関街道及び萩往還の起点。
山口県萩市 涙松遺跡
 旅人が振り返り別れを告げた場所。
山口県萩市 明木宿跡
 赤間関街道及び萩往還の宿場跡。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です