十二所 扇田の戦い

奥羽越列藩同盟を脱退した久保田藩に対し、
盛岡藩は久保田領への侵攻を開始。
楢山佐渡花輪御官所に全軍を集結させ、
秋田県鹿角市 花輪館跡
部隊を二手に分けて藩境を目指します。
一方で毛馬内でも向井蔵人桜庭祐橘が、
一軍を率いて葛原口より侵攻。

楢山佐渡の本隊は十二所本道を進み、
石亀左司馬の隊は別所口から進軍。
最初の戦いは藩境の沢尻村で起こり、
瞬く間に楢山隊は十二所に侵攻し、
秋田県大館市 十二所館跡
石亀隊も山手から攻撃します。
対岸からは向井、桜庭隊が砲撃して、
久保田勢は僅かの抵抗の末に退却。
退却の際は十二所館を自焼させており、
途中の大滝温泉にも放火し、
扇田村を越えて岩瀬村まで撤退しました。


十二所の戦い(8/8)

十二所領主である茂木筑後は、
秋田県大館市 十二所城代茂木家墓所
盛岡藩が花輪に兵を集めている事を察知し、
久保田藩政府に援軍を要請していました。
これに藩政府は家老須田政三郎を派遣して、
70余名の援軍を送っていますが、
その装備は大砲及び木砲各一門と、
旧式の三匁銃であったという。

初戦を勝利で終えた盛岡勢は、
深追いはせずに沢尻村まで後退。
伏兵を三哲山に潜ませました。
その後の8月11日に再び進軍を開始し、
扇田村まで進んで宿営し、
対岸の向井、桜庭隊も山館村まで進軍。
盛岡勢は扇田村を藩領と定めます。


沢尻村への後退と扇田村への進軍(8/9 8/11)

楢山は扇田村の村役を集め、
村を盛岡領とする布告文を読み聞かせ、
寿仙寺を本陣と定めました。
扇田村の肝煎らは将兵を酒肴で歓待
楢山はこの歓待が尋常ではないと疑い、
市中見廻りと称して兵を少しずつ移動し、
神明社に本陣を移します。
秋田県大館市 扇田神明社
久保田勢の茂木筑後、須田政三郎は、
村役らに盛岡将兵を酔い潰させて、
奇襲を掛ける事を目論んでいましたが、
突入した寿仙寺には数名の見張りだけ。
焦った久保田勢はなんとか本陣を突き止め、
神明社の盛岡勢に総攻撃を開始。
更に米代川を遡上した別動隊も、
上手から退路を断つ為に攻撃しており、
盛岡勢は大混乱に陥りますが、
将兵の奮戦により双方被害を受け、
久保田勢は奇襲に失敗して退却し、
盛岡勢も鹿角まで撤退しました。
対岸では大館から来援に来た部隊と、
向井、桜庭隊が交戦しており、
久保田藩の槍術師範青柳外記が戦死。
援軍も大館に引き返しています。
盛岡勢はこの戦いで戊辰最大の被害を出し、
久保田勢も同様の被害となったようで、
双方退却となったようです。


第一次扇田の戦い(8/12)

扇田での戦いで予想以上の痛手を負い、
盛岡勢は一時鹿角領まで撤退。
陣容を整えることとします。
8月17日には再び侵攻する事が決定し、
同20日に早朝より進撃。

前回同様に楢山隊は本道を進み、
石亀隊は山道、向井、桜庭隊は対岸を進軍し、
扇田まで進みました。
久保田勢は神明社に布陣して抵抗しますが、
対岸からの砲撃や市街地への放火により、
久保田勢はたまらず総退却。
盛岡勢の非情な市街地への放火は、
扇田村民の奸計への報復であったという。
この戦いで女軍夫山城ミヨが流弾で戦死し、
後に靖国神社第1号の女神となっています。
秋田県大館市 寿仙寺/山城ミヨ墓所


第二次扇田の戦い(8/20)

圧倒的な兵員と最新装備により、
久保田勢を圧倒した盛岡勢は、
更に大館城へ進軍を開始します。
大館城の久保田勢もこれを迎え撃つ為、
大館城南部に部隊を展開。
大館城攻城戦が開始されていますが、
これはまた別の機会に記事と致します。

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