大砲のレプリカが並ぶ壇ノ浦周辺は、
下関の観光スポットの一つ。
歩いて門司に渡れる関門トンネルの人道や、
源義経と平教経の像などもありますが、
他に火の山に登るロープウェイもあります。
この火の山という山は、
海峡に添うようにそびえる山で、
名前から火山を想像しそうですが、
別に火山ではありません。
この山に狼煙台が設置された事に由来し、
戦時は対空砲の設置された要塞として、
空襲機に対して砲撃を行った為、
違う意味でも火の山となった山です。
慶応2年には幕府の長州征伐に備え、
対岸の田野浦や布刈を標的とした砲台が、
その山麓に建設されます。
元治の攘夷戦で設置された諸砲台は、
大砲の飛距離不足を補う為、
海岸ギリギリに設置されていましたが、
慶応年間に山麓に設置された諸砲台は、
海岸から離れた高台や斜面にありました。
これは大砲の飛距離の向上もありますが、
英仏蘭米との協定によって、
海岸に砲台を設置できなかった為です。
「満珠荘」。
市営の宿泊施設。
山麓にある満珠荘辺りに、
灯篭堂下東砲台がありましたが、
現在は全くその面影はみられません。
慶応2年6月17日。
小倉戦争初戦の田野浦上陸戦で、
報国隊三番小隊が援護砲撃を行いました。
※隊長は諏訪栄三郎。
灯篭堂下東砲台は別名女郎墓砲台と呼ばれ、
女郎達の墓があった場所だったようで、
現在その墓石群は国道9号線沿いに、
集められて並んでいます。
「女郎墓」。
火の山を公園化した際に、
ここに集められたようです。
昔からなんだろうなと思っていました。
稲荷町や裏町の女郎達でしょう。
国民宿舎 海峡ビューしものせきの上辺りが、
灯篭堂砲台のあった場所らしい。
石垣が積まれていますが、
砲台の跡なのかはわかりません。
この灯篭堂砲台に二十拇臼砲が一門、
十三貫目筒が一門置かれました。
灯篭堂には大きな石灯篭があったようで、
その石灯篭はすでに撤去されてはいますが、
どうもどこかに放置されているらしい。、
この辺で聞いてまわったが誰も知らない。
今度、市にでも聞いてみようと思う。
※後日調べて石燈籠を発見しました。
記事はこちら。
「ホテル関門の宿 源平荘」。
ここにかつて長徳寺という寺があり、
攘夷戦では陣屋として使われていました。
境内に二十四斤長加農砲一門。
今回行ったのは上の地図の三か所。
周辺は戦前の要塞化と戦後の公園整備で、
小倉戦争の面影などは皆無です。
これらは田野浦上陸の際にしか使われず、
戦場が南下すると使われませんでした。
とはいえ慶応2年6月17日の上陸戦には、
これらの砲台から大砲が次々に発射され、
文字通り火の山と化しました。
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