長州藩は直轄地を宰判という行政区に分け、
代官を置いて行政にあたらせていました。
宰判には勘場と呼ばれた役所が設けられ、
租税徴収、治安維持、
裁判等が行われています。
徳地宰判勘場は佐波郡北部21ヶ村を支配し、
敷地は3反(900坪)あったとされます。
「徳地宰判勘場跡」。
徳地宰判勘場跡は梅畑となっている模様。
残念ながら訪問時は季節ではありません。
「勘場下段」。
宰判勘場は2段に分かれていたようで、
遺構として石垣が残されています。
こちらは下段。
「正門前石段」。
草に覆われてはいますが、
上段への石段も残されていました。
位置的に正門前のものと思われます。
「勘場上段」。
こちらも梅畑となっています。
敷地は確かに広かった模様。
徳地代官には吉田松陰の実兄杉民治、
松陰の叔父玉木文之進、
後に藩政首座となる山田宇右衛門と、
正義派に近い人物が多く就任した為か、
住民は正義派贔屓であったという。
俗論派に近い代官桂与一右衛門は、
※桂太郎の父。
内訌戦の際に徳地宰判勘場を襲撃され、
約200名の膺懲隊等により追放。
文久3年9月以降は服部半七郎が着任し、
官民挙げて藩を支える体制を整え、
慶応3年1月までこれを務めました。
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