島根県米子市 了春寺/荒尾但馬家墓所

了春寺は米子市博労町にある黄檗宗寺院。
その創建の時期は不明ですが、
当初は臨済宗の寺院だったようで、
西町の海岸亀島にあったとされ、
海禅寺と号していました。
その後の元禄年間(1688-1704)に、
荒尾但馬家により黄檗宗に改められ、
萬福寺末寺となって禅源寺に改称。
後に天災で倒壊してしまった為、
宝永年間(1704-1711)に現在地に移転し、
荒尾但馬家4代荒尾成倫によって、
父の法名より了春寺と改称されました。

本堂の写真は撮り忘れましたが、
鉄筋コンクリート造の立派なもの。
墓地も広く本堂周辺の他に、
出雲大社米子分院を挟んだ北側にもあり、
そこに荒尾但馬家墓所があります。

荒尾但馬家墓所」。
荒尾家は尾張国知多郡の土豪で、
織田家家臣たった当時の当主荒尾成房が、
姉が嫁いでいた縁で池田恒興に仕え、
恒興が小牧長久手の戦いで戦死すると、
跡を継いだ池田輝政を盛り立ています。
後に輝政の次男(五男)池田忠継が、
岡山藩主として別家を創設する事となると、
家老としてこれに仕えて幼い藩主を補佐。
以後は藩主外戚として続きました。


荒尾成利墓」。
初代当主荒尾成利の墓。
※墓碑銘は風化で読めず。
成利は成房の長男として生まれ、
大坂の陣では池田忠継に従って出陣し、
大和田城攻めで右手大将として活躍。
父の隠居に伴い家督を相続し、
忠継、池田忠雄池田光仲に仕えますが、
光仲の代で池田家は鳥取藩に移封され、
領内要所の米子城代に任じられています。
藩内で大きな力を持っていた為が、
次第に光仲に疎まれるようになって、
家老を罷免されて隠居。
明暦元年(1655)に死去しました。


祥光院殿前匠作惟岳徹俊大居士之塔」。
2代当主荒尾成直の墓。
初代成利の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
成利は主君光仲の政策に反対する等、
光仲にとって疎ましい存在でしたが、
成直は謙虚に従った為に信頼を得て、
荒尾但馬家の立場を守っています。
延宝7年(1679)に死去。


了春院殿前但州武林紹秀大居士之塔」。
3代当主荒尾成重の墓。
成重は2代成直の次男として生まれ、
父の成直の死去に伴い家督を相続。
父が非常時の為に蓄えた1万石を、
藩に献上して信任を得ています。
元禄5年(1692)、死去。


荒尾成倫墓」。
4代藩主荒尾成倫の墓。
※墓碑銘は風化で読めず。
3代成重の長男として生まれ、
父の死去に伴い9最で家督を相続。
年若く病弱であった為に、
叔父荒尾成昭がその後見となり、
成人までその補助を得ています。
後に成長すると藩主をよく支え、
家中の騒動に的確に対応しました。
冒頭ように了春寺の開基となっており、
墓も他とは違う五輪塔
享保19年(1734)に死去しています。


英智院殿前和刕徳騎士行昌大居士之塔」。
5代当主荒尾成昭の墓。
4代成倫の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
病弱の為に病床に伏しがちで、
家中が乱れた時期もあったとされ、
渦中の家老を追放したりしています。
藩政にも病で関与する事が出来ず、
幕府の呼び出しにも出席を辞退。
延享4年(1747)に33歳で死去しました。


俊徳院殿前豊刕覚性淨圓大居士之塔」。
6代当主荒尾成昌の墓。
分家の荒尾成庸の長男でしたが、
継嗣なき成昭の養嫡子となり、
寛延元年(1748)の養父の死去で家督相続。
しかし同年に病で急死してしまいました。


聴徳院殿故本藩上相米子城主
 中山淨興大居士塔
」。
7代当主荒尾成煕の墓。
成庸の次男として生まれますが、
本家を継いでいた兄が急死した為、
急遽家督を継いでいます。
藩主池田重寛をよく補佐し、
諸品作物の流通改革等を推進。
次代藩主池田治道まで仕えており、
天明7年(1787)に死去しました。


謙徳院殿故本藩上相米子城主
 俊翁大圓淨覺大居士之塔
」。
8代当主荒尾成尚の墓。
7代成煕の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督相続します。
31年間当主を務めた後に隠居し、
文政6年(1823)に死去。


泰智院殿故本藩上相米子城主
 俊英淨寛大居士
」。
9代当主荒尾成緒の墓。
8代成尚の長男として生まれ、
父の隠居により家督を相続。
33年間当主を務めた後に隠居し、
文久3年に死去しています。

10代当主荒尾成裕の墓はここには無く、
鳥取市興源寺のみにあります。


舊米子城主在原朝臣荒尾成富墓」。
11代当主荒尾成富の墓。
10代成裕の長男に生まれ、
慶応3年に父が隠居した為に家督を相続。
明治元年に山陰道鎮撫使と折衝しており、
その答礼使として京都へ赴きました。
明治2年に自分手政治を廃止し、
米子城を鳥取藩に引き渡して返上。
同年に上京していますが、
家臣に関する報告に不備があった為、
蟄居処分となっています。
明治26年、死去。

維新後には荒尾但馬家は士族に列しますが、
明治33年になると陪臣家の叙爵も始まり、
万石以上の裕福な家に爵位が送られました。
しかしその基準収入に届かなかった為、
叙爵されたのは明治39年だったようで、
同族荒尾志摩家と共に男爵となっています。

■関連記事■
鳥取県米子市 米子城跡
 荒尾但馬家が城代を務めた鳥取藩支城。
鳥取県倉吉市 満正寺/荒尾志摩家墓所
 同族の荒尾志摩家の領内墓所。
鳥取県米子市 米子宿跡
 米子城下にあった山陰街道の宿場町。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です