御来屋宿は山陰街道の宿場町。
元々は名和荘と呼ばれた地で、
国人領主名和氏が治めていました。
元弘の乱で討幕を画策した後醍醐天皇は、
計画が露呈した為に隠岐に流されますが、
翌年に脱出して名和湊に上陸。
当時の領主名和長年を頼って挙兵し、
鎌倉幕府を打倒しています。
後醍醐天皇が上陸した地であった事から、
[御来屋]と呼ばれるようになっています。
大山町御来屋周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが御来屋宿跡。
「御来屋宿跡」。
古い家屋が軒を連ねており、
宿場町らしい町並みを今に残します。
もう一枚。
街道沿いはこのような風景が続き、
往時の繁栄ぶりが窺えます。
汗入郡の中心地として古くから栄え、
明確な開宿時期は不明ながら、
寛永14年(1637)には宿場の機能が、
既に設置されていた模様。
「御来屋湊」。
名和氏が治めていた時代より、
海運業の盛んな地であったようで、
江戸時代には北前船の寄港地にもなり、
多くの船が停泊していたとされます。
「後醍醐天皇御腰掛岩」。
港に設置されている腰掛石。
後醍醐天皇が隠岐を脱出して辿り着き、
この岩に座って体を休めたとされます。
長らく浜の浸食で海中にありましたが、
近年に引き上げられたとのこと。
「後醍醐天皇歌碑」。
わすれめやよるべも波のあら
磯を御船の上にとめし心を
訳:忘れないであろう 寄る辺無い波の荒磯を
御船の上(船上山)で志した心を
後醍醐天皇の御製の詩で、
名和長年に直筆の勅書下された際、
勅書の中に上記が詠まれていたという。
鳥取藩は準親藩の立場ながら、
勤皇派の藩士が多かった理由として、
後醍醐天皇の存在が挙げられます。
領内で倒幕の挙兵をした訳ですから、
そういう雰囲気もありそうですね。
■山陰街道の宿場町
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