體玄寺は八橋にある臨済宗寺院。
中村一忠が米子に入封した際に、
駿河国の領地内にあった慶久寺を、
八橋城の南に移転させています。
中村家が改易となると市橋長勝が入り、
矢橋藩(八橋藩)が立藩されますが、
長勝は程なく三条藩に加増転封。
八橋は鳥取藩領となっており、
重臣津田元匡に与えられました。
後に慶久寺は體玄寺と改められて、
津田家の菩提寺となっています。
「體玄寺」。
伯耆三十三観音霊場第23番札所で、
観音堂にある十一面観音菩薩立像は、
行基の作と伝わっています。
「津田家墓所」。
津田家墓所は本堂背後にあり、
3代から12代までの当主の墓が、
段を造成して一列に配置されています。
墓所の説明板では津田元茂が3代で、
八橋に入封した津田元匡を初代しており、
2代が一体誰なのかよく判りませんが、
一応説明板の代数で紹介します。
※調べた範囲で元匡を初代とすると、
1元匡-2元茂-3元長-4元善-5元知-6元武-
7元義-8元謨-9元貞-10元統-11元亮。
「先考桂岳院殿到節義英居士之塔」。
3代当主津田元茂の墓。
元茂が體玄寺を菩提寺としたとされます。
着座筆頭荒尾成重と不仲だったという。
「先考高月院殿無悶淨照居士之塔」。
4代当主津田元長の墓。
元長が初めて家老に昇格したようです。
「先考眞光院殿本源淨廓居士之霊」。
5代当主津田元善の墓。
元善は家老職に就いていません。
「先考秀操院殿冬頽貞松居士之霊」。
6代当主津田元知の墓。
荒尾志摩分家当主荒尾重就の次男。
元知が再び家老職を仰せつかり、
以後も家老職を代々務めています。
「捐舘 麗澤院殿節元功大居士 覚霊」。
7代当主津田元武の墓。
藩校尚徳館の設立に尽力したようです。
「捐舘 義芳院殿忠巖良雄大居士」。
8代当主津田元義の墓。
「覺性院殿心巖自徹大居士」。
9代当主津田元謨の墓。
荒尾但馬家7代荒尾成熙の三男。
「津梁院殿愜雲九皐大居士」。
10代当主津田元貞の墓。
「忠嶽院殿新月良輝大居士」。
11代当主津田元統の墓。
10代元貞の弟。
「珪山陰殿華鄂元麗大居士」。
12代当主津田元亮の墓。
10代元貞の弟で11代元統の兄。
萬延元年、死去。
13代当主は津田雄次郎ですが、
墓はここにはありません。
幕長戦争では藩兵を率いて出陣しますが、
出雲今市まで進軍しただけで、
征長中止の報を聞いて帰還しています。
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