岡山県真庭市 安養寺/美作勝山藩三浦家墓所


美作勝山藩の藩主家である三浦家は、
鎌倉御家人三浦義村の子三浦家村の末裔。
藩祖三浦正次は3代将軍徳川家光に仕え、
下総国内780石を与えられた後、
御小姓組頭御書院番組頭と出世を重ね、
寛永7年(1630)に1万石に達して諸侯に列し、
矢作藩を立藩しています。
寛永10年(1633)には六人衆に抜擢され、
寛永16年(1639)に壬生藩に加増転封となり。
所領は2万5000石に達しました。
その後に3代当主三浦明敬延岡藩を経て、
刈谷藩に転封となっており、
5代当主三浦義理西尾藩に移封され、
6代当主三浦明次が美作勝山藩に入封。
三浦家は目まぐるしく転封を繰り返し、
美作勝山藩に入ってようやく落ち着きます。

2代藩主(7代当主)三浦矩次は、
領内菩提寺を安養寺に定めており、
安養寺は以後三浦家の庇護を受けました。


山門」。
立派な山門ですが建立時期は不明。
安養寺は長承年間(1132-1135)に創建し、
初めは天台宗の寺院でしたが、
江戸時代に浄土宗となったようです。


本堂」。
現在の本堂は文化11年(1814)の再建。
歴代藩主の位牌があると思われます。

裏手の三浦家墓所へ。

三浦家墓所」。
4代藩主まで江戸誓願寺に葬られますが、
5代より墓所が営まれており、
8代を除く5代以降の墓碑が建てられています。


常樂院殿前志州刺吏実譽至眞誠山大居士」。
5代藩主(10代当主)三浦誠次の墓。
3代藩主三浦前次の長男として生まれ、
4代藩主三浦毗次の養嫡子となり、
養父の隠居に伴い家督を相続しましたが、
僅か1年後の天保2年(1831)に病死しました。


峻徳院殿前壹州刺史膳譽高山赫道大居士」。
6代藩主(11代当主)三浦峻次の墓。
5代誠次の長男として生まれ,
父の死去に伴い11歳で家督を相続。
大坂加番に任じられましたが、
天保10年(1839)に在任中に死去しています。


天徳院殿前金部郎中聖誉聡明知恵達大居士」。
7代藩主(12代当主)三浦義次の墓。
5代誠次の三男として生まれ,
兄の峻次が大坂加番在任中に急死した為、
急遽その家督を継ぎました。
嘉永元年に家督を譲って隠居していますが、
明治16年まで存命しています。

8代藩主三浦朗次は江戸誓願寺が墓所。


従五位三浦弘次之墓」。
9代藩主(14代当主)三浦弘次の墓。
5代誠次の四男として生まれ、
安政7年に8代朗次が死去した為に、
その家督を相続しています。
譜代大名として幕府の補佐を是とし、
長州征伐には藩兵を派遣しました。
慶応4年5月6日に隠居。
明治19年に死去しています。


従四位子爵三浦顕次之墓」。
10代当主三浦顕次の墓。
9代弘次の長男として生まれ、
長州征伐には藩兵を率いて出陣していますが、
父と意見が違い勤皇思想を持っていたという。
幕末の最末期には藩の実権を握っており、
慶応4年5月6日に父が隠居すると、
その家督を継いで最後の藩主となっています。
明治2年には藩名を真島藩に改めて、
明治4年に廃藩置県で免官。
明治17年に子爵に叙せられており、
明治28年に死去しました。

■関連記事■
岡山県真庭市 椎ノ木御殿
 維新後に藩主が居住した御殿跡。
岡山県真庭市 美作勝山城跡
 美作勝山藩の居城跡。
岡山県津山市 津山城跡
 津山藩松平家の居城跡。
岡山県高梁市 備中松山城①
 備中松山藩板倉家の居城跡。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です