妙頂寺は中区十日市町にある日蓮宗寺院。
天文20年(1551)頃に現在の安芸高田市から、
現在地に移転している事から、
毛利家の庇護を受けていた模様。
原爆の爆心地から550mの距離にあり、
伽羅は破壊されてしまったようで、
その後に再建されて現在に至っています。
「本堂」。
鉄筋RC造の本堂。
原爆投下の翌日には妙頂寺の山門前に、
黒焦げの遺体が積み重ねられていたという。
生き残った人々は悲惨な状況の中で、
身内の菩提を弔おうと遺体を持って来て、
それが積み重ねられたのでしょう。
境内には被爆した石灯篭や墓石も現存。
墓地には三原浅野家の墓所があります。
「大通院殿南叔道栄大居士(右)」、
「正喜院殿玉翁道仙大居士(左)」。
初代当主浅野忠吉の墓と、
3代当主浅野忠真の墓。
浅野忠吉は浅野長政の従兄にあたり、
惣領家当主である長政に仕えました。
長政が若狭国を与えられると、
国吉城の城主に任じられており、
甲斐国に長政が転封した際には、
飛地の河内領の支配を任されています。
次代浅野幸長が紀伊国へ加増転封となると、
新宮領2万8000石を与えられ新宮城を築城。
幸長の家督を継いだ浅野長晟が、
広島藩へ加増転封されると、
三原城代となり3万石を与えられました。
元和7年(1621)に享年76歳で死去。
3代忠真は忠吉の養子浅野忠長の次男で、
幼少期は幕府の証人として江戸で暮らし、
父の隠居に伴い家督を相続しています。
29年の当主在任の後に隠居し、
元禄7年(1694)に77歳で死去。
三原の妙正寺に葬られたようですが、
ここにも墓が建てられました。
「従四位勲六等男爵浅野忠純之墓(左)」、
「正七位浅野忠之墓(右)」。
13代当主浅野忠純の墓と、
11代当主浅野忠の墓(?)。
忠純は明治9年に家督をついだ人物で、
最後の三原領主12代浅野忠英の長男。
11代忠は幕末期の諱は忠厚だったようで、
明治期に忠に改めています。
10代浅野忠敬の養子となって家督を継ぎ、
藩政改革を志していますが、
抵抗勢力の妨害で頓挫しており、
安政3年に隠居させられてしまいました。
その後は三原領で軍制改革を行い、
文久2年に藩政に返り咲いています。
廃藩後は厳島神社の宮司となり、
明治25年に死去。
但しこの墓は[忠]の墓なのか、
[忠之]という人物の墓なのか不明。
忠は大正5年に正五位を追贈されており、
埋葬時はそれより位階は低い筈なので、
墓碑銘の正七位もありえるかなと。
忠純の周辺に忠之なる人物はいませんし、
たぶん[忠(之)墓]だと思われます。
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