三重県名張市 徳蓮院/名張藤堂家墓所

徳連院は名張市平尾にある曹洞宗寺院。
鎌倉末期に名張の豪族堀江宗樹が建立し、
大蓮寺として同家菩提寺となっていました。
その後は荒廃していたようですが、
寛永13年(1636)に藤堂高吉が名張に入ると、
その菩提寺に定められて再建。
以後は名張藤堂家の墓所となっています。


本堂」。
昭和8年の再建とされる本堂

名張藤堂家墓所は本堂の右側。

名張藤堂家墓所」。
名張藤堂家は藤堂高虎の養子藤堂高吉が、
藤堂家津藩入封後に名張1万5000石を拝領。
一門家として代々名張を領した家でした。
当主は宮内を通称としていた為、
藤堂宮内家とも称されています。


徳蓮院殿徳翁寿栄大居士」。
初代当主藤堂高吉の墓。
高吉は丹羽長秀の三男として生まれ、
最初は羽柴(豊臣)秀長の養子にとなります。
しかし後に豊臣秀吉は甥の豊臣秀保を、
秀長の養子としたことで居づらくなり、
これを不憫に思った高虎が養子にもらい、
後継者とするつもりでいたという。
しかし高虎に実子藤堂高次が生まれた為、
高虎は高吉の処遇に苦慮。
徳川家康の口添えで今治城主となりますが、
高虎が伊勢国に転封となった後も、
そのまま今治城に留め置かれておます。
高虎の死後に高次が家督を相続した後、
高吉は領地替えで伊勢国内に2万石で移封。
初めの領地は多気郡飯野郡内でしたが、
高次の命により名張に領地替えさせられ、
以後は代々名張を領する事になりました。
幕府は冷遇された高吉を独立させ、
直参大名に取り立てようと画策したとされ、
藩はこれを警戒していた模様。
高吉が長寿であった事も影響しており、
名張家と宗家の関係は良くなかったようです。
寛文10年(1670)に93歳で死去。


清涼院殿金翁長天大居士」。
2代当主藤堂長正の墓。
初代高吉の嫡男として生まれ、
幼少期は江戸で証人として暮らしました。
父の死後に家督と2万石を相続していますが、
3代藩主藤堂高久の命により5000石を、
藤堂長留藤堂長之藤堂長則に分与し、
名張家知行は以後1万5000石となっています。
天和2年(1682)、死去。


恵明院殿観月儀天大居士」。
3代当主藤堂長守の墓。
父の2代長正より家督を相続。
元禄16年(1697)に51歳で死去しています。


光俊院殿英岳昭天大居士」。
4代当主藤堂長源の墓。
生来病弱な当主であったようで、
京都で療養していたようですが、
享保元年(1716)に27歳で客死しています。


可昭院殿耀嶽慈天大居士」。
5代当主藤堂長熙の墓。
分家の藤堂修理家2代当主藤堂長定の子で、
4代長源が継嗣無く死去してしまった為、
その娘婿として家督を相続。
初代より続く宗家との確執から、
津藩からの独立を画策していますが、
これを藩に察知されて圧力を受けています。
この騒動で隠居を余儀なくされますが、
以後も家政に影響力を持ちました。
安永5年(1776)に79歳で死去。


瑞明院殿春容亮天大居士」。
6代当主藤堂長美の墓。
長美は5代長熙の三男として生まれ、
父の強制隠居により4歳で家督を相続。
長熙の後見により領地経営が行われますが、
元文6年(1741)に僅か10歳で死去しました。


顯光院殿圓覺融天大居士」。
7代当主藤堂長舊の墓。
5代長熙の四男として生まれ、
父の隠居で兄長美が4歳で家督を継ぎますが、
長美は僅か10歳で早逝してしまった為、
兄と同じ4歳で家督を相続しました。
幼少期は父の後見で領地経営を行い、
父の死後に新政を行っています。
寛政9年(1797)に60歳で死去。


正眼院殿直掯宗天大居士」。
8代当主藤堂長教の墓。
7代長舊の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
文政13年(1830)に52歳で死去しています。


彰烈院殿徳裕順天大居士」。
9代当主藤堂長徳の墓。
8代当主長教の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
母湧姫が9代藩主藤堂高嶷の娘であった為、
疎遠であった宗家との関係は改善され、
以後は良好な関係に移行しています。
元治元年(1864)に54歳で死去。


道光院殿明善聴天大居士」。
10代当主藤堂高美の墓。
10代藩主藤堂高兌の三男に生まれ、
9代長徳の長男藤堂長親が早世し、
次男の藤堂長邦久居藩主となった為、
長徳の婿養子となっています。
養父長徳の死後に家督を相続しますが、
同年に急死してしまいました。


藤堂高節墓」。
11代当主藤堂高節の墓。
藤堂采女家8代藤堂元晋の次男に生まれ、
10代高美の急死により急遽家督を相続。
幕末期は藤堂長発と称していますが、
明治維新後に高節に改名しています。
明治20年、死去。

藩に冷遇されていた名張藤堂家。
その特殊な状況は長州藩でいえば、
岩国領吉川家に近いかなとも考えましたが、
それでも吉川家は毛利家の血縁でした。
名張家のように藤堂は名乗りながらも、
実際には丹羽長秀の系譜だった為、
藩はこれを警戒しますし、
名張家も信用は出来なかったでしょう。
その関係が改善されるのは、
当主に藤堂家の血が入って以降。
やはり血は水よりも濃いようです。

■関連記事■
三重県名張市 名張藤堂家邸跡
 名張藤堂家の陣屋跡。
三重県伊賀市 西蓮寺/藤堂采女家墓所
 上野城代を務めた藤堂采女家の歴代墓所。
三重県津市 寒松院/津藩藤堂家墓所①
 津藩藤堂家の歴代墓所。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です