慶応4年6月に浦上キリシタンら114名は、
萩、津和野、福山の三藩に配流。
翌明治2年12月には3000余名のキリシタンが、
21藩に分けられて流されました。
津藩でも浦上キリシタンを預かる事となり、
115名が津藩領に連行。
大和古町22名、上野58名、一志郡大村75名と、
津藩は彼らを各地に収容しています。
「大村閑城代官所跡」。
大村にあった津藩の代官所跡。
閑城は大村の中心地の地名で、
この周辺一帯が代官所だったようです。
「浦上キリシタン収容所跡」。
代官所の建物の一部だったようで、
浦上キリシタン75名が収容された場所。
津藩は彼らに対して温情的だったようで、
食事は十分に支給されており、
拷問も全く無かったとされます。
2ヶ月後には家族ごとに庄屋に預けられ、
農業や日雇稼ぎをさせていますが、
不自由はあまりなかったようです。
各地の村々に預けられた中で、
逃亡者が出た為に収容所へ戻されますが、
環境はそれまでと変わらなかったようで、
偶に棄教の説得が行われるだけで、
打ちも叩きもされなかったとのこと。
やがて禁教は解除されて彼らは帰郷。
殆どの者が棄教せずに浦上に戻りました。
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