僕の先祖はよくわかりません。
祖父祖母が元気で生きている間に、
色々と聞いていれば良かったと悔やまれます。
なんでも父方は柳河藩の出のようで、
明治以降は長崎で材木屋をやっていたとか。
末子の祖父は三菱の造船所に入社した為、
下関に住むようになったのですが、
宗家は原爆によって全滅してしまったとか。
父はあまり祖先に興味がなかったらしく、
祖父の話を真剣に聞いていなかったようで、
そんな事を言ってたなぁ・・程度です。
母方は寺本生死之介の末裔とのことですが、
家系図があるわけでもありませんし、
実在が疑問視されている人物ですので、
どうだったのかはわかりません。
要はどこの馬の骨かわからないのですが、
最低でも長州藩士では無かったわけです。
とはいえ下関に住んでいますので、
やっぱり長州藩は好きですし、
史跡訪問するにも資料を読むにしても、
長州藩のものが豊富ですので、
長州藩の事の方が詳しくなるわけです。
他藩や幕府、新撰組等を知りたいとこですが、
地元史は地元が一番よくわかるのでしょう。
本州の西の果てに住んでいますと、
なかなか東北に行く機会がありません。
仕事で福島、青森と行く機会がありますので、
仕事が休みの時に史跡を巡りましたが、
メジャー所が精一杯になってしまいます。
仕事で福島に行った際には、
会津若松にも行けるチャンスはありましたが、
時間的な関係で断念しました。
そういうことで、
他の地方の詳しい事を知ろうとすれば、
地元歴史研究家等が発行する本を読む以外、
方法が無いのです。
・・・で、
会津幕末史の研究家達の本を読むと、
殆ど長州藩の事をボロクソに書いていますし、
デタラメを書いてるものも多数見られます。
わかりやすく言えば、
大河八重の桜で描かれたような認識が、
会津史家の長州藩の認識の模様。
と、書くと多少オーバーですが、
何故か素人レベルの知識の様に感じられます。
例えば長州藩や長府藩等、
本藩と支藩の区別が曖昧ですし、
奇兵隊の成立や薩長同盟等の時系列が、
全然間違っていたり、
奇兵隊と諸隊の区別も出来なかったりします。
まあこれは会津藩に支藩が無かったので、
想像が難しいのかなとも思いますし、
玄武隊、青龍隊、朱雀隊、白虎隊などの会津の軍制と、
長州藩諸隊の成り立ちが全く違うので、
仕方が無いのかなとも思います。
また、根本的に会津史家に「長州=絶対悪」の認識があるため、
バランスの取れた研究が出来ないということも考えられます。
まだ会津史家の本を網羅したわけではないので、
バランスの取れた良い本もあるのかもしれませんが、
残念ながら未だ僕はそういう本に出会っていません。
(お勧めの本があれば教えてください)
会津藩降伏後の状況が一番知りたいところなのですが、
婦女子等への暴行、略奪、戦死者の埋葬禁止など、
長州藩の残虐行為が色々と書かれてはいますが、
いつ、どこで、だれが、どういう方法で、
誰の意思で為されたことなのか、ほとんど書かれていません。
その話が口伝なのか文献であるのかさえ一緒くたに羅列して、
長州藩の非道ぶりを書きなぐっているようです。
京都守護職任命から降伏までの事は、
ものすごく丁寧に研究されており、
出展などもちゃんと記載されています。・・が、
降伏後の事はいきなり稚拙になる。あまりにも不自然です。
感情論が入ってしまうのだろうと思うのですが、
これではどこぞの国の歴史認識と一緒。
そういう事こそ冷静に研究する事が大切なのでは?
こういうことを思った始まりは、
八月十八日の政変で京を追われた長州藩が、
薩摩藩、会津藩を嫌い、
下駄の裏に「薩賊会奸」と書いて踏みつけたとされる話。
これ、それこそ「いつ、どこで、だれが」なんですよね。
その話の出どころが、僕は未だに見つけられなかった。
長州藩士の多くが下駄に「薩賊会奸」を書いていたなら、
何足が残っていても良いはずですが、そんなものは存在しない。
実際に薩摩や会津に対し、恨んでいたという感じはない。
まだまだ勉強が足りないのですが、つたない僕の調べで言えば、
どちらかというと薩会より幕府に向いていたように感じます。
下駄の話で言えば、
もしかしたらそういう人もいたかもしれません。
ですが、長州藩全体で考えたら、
それほど特別視しているとは思えない。
薩摩会津憎しがそれほど強いならば、
薩長同盟なんてどんな手段でも無理です。
薩摩、会津は確かに直接やられた相手であるので、
少々の恨みはあるでしょうが、総大将は幕府であり、
恨むべきは幕府といったところ。
遥か遠い会津藩を云々言ってる場合でもないわけです。
長州藩史を調べれば調べるほど、会津藩が遠く感じられます。
実際のところ、ほとんど出てこないのです。
また、長州藩が戦った他の戦争を見ても、
戦地での民衆には、周到な配慮がなされています。
町家に被害が及ぶ事をできるだけ避けており、
長州藩の参加した戦争において、
放火はほとんど相手方によるものです。
人一倍体面を気にするのが長州藩の藩風です。
もちろん中にはヒドイ奴もいたでしょう。戦争ですからね。
奇兵隊などの諸隊が、農工商身分だという偏見もあるのでは?
もしそうなら、他の戦場でも相当嫌われているはずですし、
諸隊は身分は低いといっても志願兵の部隊なので、
志ある者や武士になりたい者の集まりでした。
ならず者の部隊ではないので、
他藩の士分の部隊より規律があったはずです。
そんなわけで、ふと思ったのです。
会津藩にだけなんでそんなに残虐な事したのかな?って。
婦女子等への暴行、略奪、戦死者の埋葬禁止が事実ならば、
「いつ、どこで、だれが」したのかを知りたいのです。
山口在住の僕が言うと角が立ちますが、
最初に書いたように先祖は長州藩と縁が無いですし、
長州藩だけでなく、幕臣も諸藩士も新撰組も好きな僕が、
一般論として会津史は偏っているなと感じるわけです。
長州を恨んでばかりいないで、
戊辰を戦い抜いた祖先を誇りにしてほしいものです。
まあ最低でも「八重の桜」と「花燃ゆ」では、
断然「八重の桜」の圧勝ですけどね。
会津若松行きたいな・・仕事でなく旅行で3日位歩き回りたい。
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