下関市阿弥陀寺町 梅ノ坊砲台

平家一門と共に壇ノ浦に沈んだ安徳天皇
この幼帝を祀るのが赤間神宮です。
赤間神宮は幕末まで阿弥陀寺という寺でしたが、
明治になって[天皇社]として神社となり、
明治8年に[赤間宮]、
15年に[赤間神宮]と変貌しました。


赤間神宮」。
竜宮城をイメージした水天門
赤間神宮のシンボルです。
2代目宮司は白石正一郎でした。

この赤間神宮の前身である阿弥陀寺は、
無量寿院の称号を持つ大寺院で、
梅ノ坊奥ノ坊西ノ坊青蓮坊
円福坊多聞坊などの諸坊が建てられており、
下関を訪れる人の殆どが参拝したとされます。
吉田松陰も北浦巡視の際には、
阿弥陀寺で宝物を見学しています。
(記事はこちら)。

明治になって阿弥陀寺が神社となったことで、
阿弥陀寺の諸坊、支院も消滅。
建物は売却されて民家となったり、
料亭となりしました。
フグ料理で知られる春帆楼がその料亭で、
医師藤野玄洋が庫裏を買い取り、
[月波楼医院]として医院を開業。
玄洋の死後に妻みちが、
割烹旅館を開いた事に始まります。
123456789012345678900
空襲で殆どの建物が焼失した中で、
唯一阿弥陀寺の建物で残るものがあります。
それが「梅ノ坊」。

赤間神宮の境内を右に抜けると、
急な階段と鳥居があります。
これが大連神社に向かう参道。


勅使殿(梅ノ坊)」。
阿弥陀寺の諸坊のひとつで[梅ノ坊[は、
小倉戦争の際に奇兵隊五番縦隊が宿営し、
四寸一分口径長砲一門が配備されました。

この[梅ノ坊]には日清講和談判の際、
※日清戦争後の講和条約。
全権大使であった伊藤博文が宿泊しています。

その後は民家となっていましたが、
昭和60年の安徳天皇800年式年大祭で、
勅使小出英忠掌典を迎えるため、
御休所として修繕されました。
この際に[勅使殿]と名付けられています。


梅ノ坊砲台跡」。
梅ノ坊の庭先に砲台が設置されていました。
眼下には奇兵隊屯所の極楽寺が見えます。

この配置では極楽寺の頭上を、
砲弾が飛ぶ形になりますが・・・。

極楽寺と梅ノ坊の位置関係。
完全に極楽寺の後ろからの砲撃ですね。

更に石段を上った大連神社の参道には、
[倭船]が残されています。

壇之浦漁釣船(倭船)」。
壇ノ浦の漁師は平家の末裔であるとされ、
海底に沈む幼帝や平家一門を弔い、
漁の間は正座をしていたという。
近年に機械船が導入され、
[倭船]が姿を消してしまい、
最後の一隻となった舟を奉納したそうです。


大連神社」。
階段を上った先にある大連神社
この神社は元々中国の大連にあったもので、
当時の租借地に建てられた神社ですが、
日本の敗北後にソ連満州関東州に侵攻し、
日本の施設の殆どが襲われますが、
大連の神職がソ連兵に雅楽舞楽を披露して、
御神体等を持ち帰ることを許されたという。
大連神社宮司が赤間神宮宮司に就任した際に、
赤間神宮境内に御神体を仮遷座。
その後に伊勢神宮の古社殿を譲り受けて、
現在の社殿が完成して正式に遷座しました。

境内には[大東塾十四烈士之碑]や、
[紅石稲荷神社]があります。

幕末には関係のない大連神社に来た理由は、
その背後の紅石山にあります。
小倉戦争時に砲台が設置されたようで、
次回はその痕跡を探す為に山へ入ります。

■関連記事■
下関市阿弥陀寺町 紅石山砲台跡
 赤間神宮の裏手にある小倉戦争時の砲台跡。
下関市阿弥陀寺町 八軒屋砲台跡
 八軒屋の海岸沿いに置かれた台場跡。
下関市阿弥陀寺町 赤間神宮
 赤間神宮は元阿弥陀寺でした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です