古心寺は秋月藩黒田家の菩提寺。
秋月藩初代藩主黒田長興が、
父の菩提を弔うために建立されたもので、
廃藩置県後に黒田家の庇護を離れたために、
本堂を甘木の光照寺へ移し、
山門を弥永の浄光寺に移して、
福岡藩初代黒田長政(長興とも)の数奇屋を、
本堂に充てています。
「山門」。
藩主家菩提寺にしては小さな山門。
元々の山門は浄光寺に移したとの事ですが、
移された山門も既に無いようです。
山門をくぐると小さなお堂があり、
その脇に臼井家の墓所がありました。
「臼井六郎之墓」「簡堂 清子墓」。
最後の敵討ちで知られる臼井六郎の墓。
その隣は六郎の両親の墓で、
殺された臼井亘理(簡堂)と清子の墓。
鳥羽伏見の戦いの際に京いた父亘理は、
秋月に帰国して戦いの様子を藩主に報告。
自宅に客を呼んで酒宴を開いていましたが、
その夜に干城隊士らが亘理と妻清子を殺害。
一緒に寝ていた3歳のつゆも負傷しました。
六郎は乳母と添い寝をして難を逃れますが、
この事件の犯人である干城隊士らは無罪。
逆に臼井家は減禄処分となっており、
藩による理不尽な裁定が下されます。
時が過ぎて元干城隊士の一瀬直久の弟が、
「兄が伝家の名刀で亘理を斬った」
と自慢していたと聞いて仇討ちを決意。
明治9年に一瀬を追って東京へ出て、
山岡鉄舟の内弟子として世話になりながら、
撃剣を学んで時機を待ちます。
そして時が過ぎた明治13年。
一瀬が東京上等裁判所判事となったと聞き、
裁判所の門前で待ち伏せたが現れず。
黒田家家扶鵜沼不見人の宅を訪ねたところ、
偶然にも一瀬が居ることを発見し、
元藩主の黒田家に向かうのを追い、
黒田邸から出てきたところを襲撃。
父の形見の短刀で本望を遂げました。
「本堂」。
かつての本堂は甘木の光照寺に移築させ、
長政(長興)が使用していた数奇屋を、
代わりの本堂として利用していましたが、
老朽化と白蟻によって改築を余儀なくされ、
今は新しい本堂が建てられています。
本堂の左手側より黒田家墓所へ。
「熈緝」と扁額された門。
墓所は雪に埋もれていましたので、
下記の写真は後日撮影したもの。
「興雲院殿前大中大夫
筑州都督古心道ト大居士」。
福岡藩初代藩主黒田長政の墓。
立札には藩祖となっていますが、
初代藩主の父親という事で、
藩祖扱いとされているのでしょう。
「東陽院殿前甲斐太守五峰宗因大居士」。
初代藩主黒田長興の墓。
福岡藩初代藩主黒田長政の次男で、
長政の遺言により5万石が分与され、
秋月藩が立藩されました。
兄の福岡藩2代黒田忠之と仲が悪く、
宗家と疎遠になっていたようですが、
3代黒田光之の代に和解しています。
「笑雲院殿前甲州刺史別叟傳大居士」。
2代藩主黒田長重の墓。
初代長興の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
厳しい倹約令や藩札発行等を行った他、
幕政では奏者番に任命されています。
「興陽院殿前隠州刺史三峯宗玄大居士」。
3代藩主黒田長軌の墓。
2代長重の長男として生まれ。
父の死去に伴い家督相続しますが、
僅か5年で病死しています。
「興願院殿前甲州刺史耀譽祐歡大居士」。
4代藩主黒田長貞の墓。
福岡藩中老野村祐春の次男で、
黒田家の血を引いていた為に養嫡子となり、
養父長軌の死去に伴い家督を相続しました。
定免制や知行制導入等の改革を行い、
39年の治世の後に死去しています。
「興徳院殿前甲州刺史一峯宗関大居士」。
5代藩主黒田長邦の墓。
4代長貞の長男に生まれ、
父の死去により家督を相続しました。
8年の治世の後に死去。
「岱源院殿前甲州刺史亮應宗淳大居士」。
6代藩主黒田長恵の墓。
5代長邦の長男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
弱冠19歳で12年後に死去しました。
「霊雲院光嶽道照大居士」。
7代藩主黒田長堅の墓。
旗本山崎義俊の次男として生まれ。
母が5代黒田長邦の娘だった為、
6代黒田長恵の急死により末期養子となり、
僅か4歳で家督を相続しました。
しかし将軍御目見前に15歳で死去。
この為に御家断絶の危機に直面しています。
「朝陽院殿前甲州刺史大雄向水大居士」。
8代藩主黒田長舒の墓。
高鍋藩7代秋月種茂の次男として生まれ、
秋月藩の断絶の危機に際して、
祖母が4代長貞の娘であった事から、
血縁を持って家督を継いでいます。
幼い宗家藩主の補佐を良く勤め、
22年の治世の後に死去しました。
「龍徳院殿前甲州刺史樂齋文水大居士」。
9代藩主黒田長韶の墓。
8代長舒の次男として生まれ、
父の死去により家督を相続しますが、
若年の為に藩政は筆頭家老宮崎織部が掌握。
これに間小四郎ら家臣が宗家に訴え、
宮崎ら専横した者は罷免されますが、
藩の要職を担った者の殆どが処分され、
政治中枢が崩壊した状態になってしまい、
宗家が介入する事になっています。
「安静院殿前甲州刺史文山松操大襌定門
慈海院殿法雲智静大襌定尼」。
10代藩主黒田長元と正室慶姫の墓。
土佐藩10代山内豊策の五男に生まれ、
9代長韶の養嫡子となって家督を相続。
藩政を主導した間小四郎を流罪とし、
藩内の気風を刷新させました。
30年の治世の後に隠居。
長元の墓だけ奥方と合葬ですが、
これは東京の祥雲寺も同様です。
「太陽院殿前甲州刺史春窓宗華大居士」。
11代藩主黒田長義の墓。
10代黒田長元の隠居で家督を継ぎますが、
16歳の若さで死去しています。
「黒田長徳の墓」。
12代で最後の藩主黒田長徳の墓。
他の藩主や奥方の墓に比べて小さい墓石で、
初代長興の墓の真後ろにあります。
兄の急死により家督を相続しました。
藩主の墓所はよく整備されているようで、
整備が行き届いているのがわかります。
秋月藩黒田家の庇護を離れた後も、
お寺は藩主菩提寺としての役割を、
しっかり果たしているようですね。
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