美祢市の中央部北側。
下領という場所にある八幡磨能峰宮に、
池田屋事件の殉難者広岡波秀の碑があります。
「八幡磨能峰宮」。
通称は下領八幡宮。
社伝によると創建は孝霊天皇の時代とされ、
紀元前200年代という事になります。
当初は天照大神、蛭子大神等が祭神でしたが、
鎌倉時代は石清水八幡宮の分霊が合祀され、
以後は八幡宮となったようです。
「拝殿」。
この神社の宮司の長男であった広岡波秀は、
徳山遠石八幡宮で修行して国学神典を学び、
尊皇攘夷思想を持つようになります。
文久2年に京都に出て広分彦也と名乗り、
長州藩士らに交じって尊皇攘夷運動を展開。
八月十八日の政変が起こると、
長州藩の汚名返上に奔走していますが、
同志古高俊太郎が新撰組に捕縛された為、
池田屋で密議を強行しました。
「贈従五位廣岡正恭之碑」。
碑は浸食が進み文字の判別は不可能。
傍らの説明板で解説されています。
広岡ら尊攘派志士らが密議を進める池田屋に、
近藤勇ら新選組が踏み込んで、
志士達は応戦しながら脱出を図ります。
広岡も負傷しながら池田屋から脱出しますが、
傷は深く三条河原町の路上で絶命しました。
大正4年に広岡に従五位が贈られた為、
翌年境内にこの碑が建立されたようです。
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