西尾城は西尾藩の藩庁。
その創建時期は明らかではありませんが、
松平(徳川)家家臣酒井正親が、
西尾城主であった事までは確認されており、
子の酒井重忠まで城主であったようです。
その後は徳川家康の関東移封に伴い、
豊臣秀次の宿老田中吉政に与えられました。
関ヶ原の戦いが起こると吉政は東軍に属し、
その功により柳川32万石に加増転封され、
代わって本多康俊が2万石で入り、
以降は、大給松平家、太田家、井伊家、
増山家、土井家、三浦家と、
譜代大名が入れ替わり、
大給松平宗家が6万石で入って以降、
廃藩置県までに5代が続きました。
「西尾城新門址」。
名鉄西尾駅から県道383号線を北西へ。
西尾城跡を目指す登り坂の途中の跡碑。
西尾城の搦手門にあたる門で、
名の由来は文字通り新しい門だったから。
元々東側には本町口門という門があって、
それが何らかの理由で廃止されて、
新たに櫓門が建てられたからという。
「尚古荘」。
昭和初期に米商岩崎明三郎が造らせた庭園。
東ノ丸の遺構を利用して作庭されたもの。
「鍮石門」。
二ノ丸の表門。
城が西尾市歴史公園として整備された際、
本丸丑寅櫓と共に復元されたもの。
当時は真鍮の飾りが施されていた模様。
「二之丸広場」。
綺麗に芝生が整えられた二之丸広場には、
二之丸御殿が建てられていました。
「天守台」。
二ノ丸に天守があったのは西尾城の特徴。
三重櫓で南と東に多門櫓が付属しました。
この天守台は復元されたもので、
廃城の際には天守台も破壊されており、
発掘された石垣を使って復元されています。
「旧近衛邸」。
京都から二ノ丸の一角に移築された建物で、
左大臣近衛忠房の屋敷だったもの。
忠房の正室貞姫は島津斉彬の養女で、
その関係から薩摩藩が建てたものでした。
後に小松宮彰仁親王や、
山階宮晃親王の別邸となり、
天理教が購入して教会となっています。
昭和60年に教会が改築される際、
取り壊される予定でしたが、
西尾文化協会が惜しんで移築したもの。
なかなかの経歴のある建物です。
「御剱八幡宮」。
本丸内の四隅の櫓を除いた建物は、
この御剱八幡宮だけであったらしい。
築城年は定かではありませんが、
鎌倉時代に足利義氏が三河守に任じられ、
この地に西条城を築城したとされており、
義氏は西条城を築城が開始される際に、
御剱八幡宮に源時氏の宝剣髭切丸と、
白旗を奉納したとされ、
その西条城が西尾城とも考えられています。
城下の産土神である伊文神社の祇園祭では、
この御剱八幡宮に神輿渡御が運ばれ、
庶民も城内へ入る事が出来たという(!)。
マジっすか!
本丸に庶民が入れた城ってここだけかも??
「西尾神社」。
こちらは戦後に建立されたもので、
地元出身の英霊が祀られています。
「西尾城址」碑。
西尾城は本丸以外破壊されていましたので、
二ノ丸再整備の前に建てたものでしょう。
「秋山恬堂碑」。
秋山恬堂は西尾藩の儒学者。
下級藩士の次男ながら藩儒となり、
江戸藩邸の学問所典学館の教授に就任。
後に西尾に帰郷して学問所の創設に尽力し、
藩校修道館の主任教授に任命されました。
維新後は権少参事となっており、
廃藩後は中学校の教官などを務めています。
この碑は門弟らが建立したもの。
「戦死者勒名碑」。
西南戦争に従軍した幡豆郡戦死者の碑。
題字が不思議な書体で読めなかったので、
後日西尾市文化振興課に問い合わせて、
丁寧に教えて頂きました。
「本丸丑寅櫓」。
天守のような三層櫓。
西尾城は廃城の際に石垣も破壊されますが、
この丑寅櫓の石垣だけは、
御剱八幡宮の位置的な関係で残されました。
平成8年に鍮石門と共に復元され、
西尾城のシンボル的な役割を担っています。
「西尾市資料館」。
西尾の歴史的資料を展示している資料館。
「西尾城姫丸門址」碑。
姫丸という非常に珍しい名前の曲輪ですが、
その名称の由来は不明。
お姫様が住んでいた訳ではなさそうで、
2番目とか小さなとかいう意味らしい。
前記した御剱八幡宮への神輿渡御の際は、
御殿のある二ノ丸は通らずに、
この姫丸を通ったのでしょう。
辰巳櫓跡には3つの碑が建てられています。
「關口長太郎碑」。
関口長太郎は旧西尾藩士で、
日本に割譲された台湾の教育のため、
7人の教師と共に芝山巌学堂を設立。
治安が悪化しても授業を行っていましたが、
抗日ゲリラに襲われて殺されてしまいます。
この時に一緒に殺された教師の中には、
楫取素彦の次男楫取道明の含まれ、
彼らは六氏先生と呼ばれており、
台湾で祀られています。
「松田君碑」。
西尾警察署の巡査で、
人家の出火現場に駆けつけ、
身を挺して消火にあたりましたが、
その際に倉庫が崩れて殉職。
その模範的職務活動を称えた碑ですが、
松田君とだけ説明されているので、
名前がわかりません。
「筒井秋水碑」。
西尾出身の漢学者。
明治初期には子弟の教育にあたり、
多くの逸材を育てたようです。
また詩文に優れ書家としても活躍しました。
最後に本丸丑寅櫓を別角度から。
この櫓は無料で入れるらしいのですが、
訪問時は開放時間外でした。
幕末の西尾藩主松平乗全は、
将軍継嗣問題で南紀派に属し、
阿部正弘によって罷免されてます。
急死した阿部の死後に老中首座堀田正睦や、
大老井伊直弼によって再び推挙。
間部詮勝免職後は老中首座に就任しますが、
再び罷免されて1万石減封となりました。
次代藩主松平乗秩は奏者番や、
寺社奉行を務め長州征伐にも出兵。
大政奉還後は藩論が分かれますが、
鳥羽伏見で幕軍が敗れると新政府に恭順し、
京都警護の兵を送っています。
【西尾藩】
藩庁:西尾城
藩主家:大給松平宗家
分類:6万石、譜代大名
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