慶応2年。
大楽源太郎は大道の上り熊という場所に、
西山塾(西山書屋)という私塾を開設します。
高杉晋作の功山寺挙兵により、
長州は内訌戦に移行。
大楽も忠憤隊を組織して参戦しました。
この内訌戦の末に正義派政権が誕生し、
慶応2年の幕長戦争へと進むわけですが、
そんな時期に故郷で私塾を開いています。
この理由ははっきりしないのですが、
なんらかの意見の食い違いがあって、
大楽が抜けたか外されたのだと思われます。
司馬遼太郎は晋作らに軽んじられて、
故郷に帰らされたとしていますが、
勿論司馬の想像でしかなく真相は不明。
とにかく長州藩の大事な時期に抜けて、
奥州出かけて米沢や村松に遊説。
しかしながら結果は出せずに帰郷して、
宮市の料亭の娘りちを娶り、
大道で私塾を開きました。
西山塾の跡には碑が建てられていますが、
現在は個人所有の庭のようです。
跡碑の場所へ行くためには、
個人宅の敷地内を通らなければなりません。
声を掛けたのですが留守のようでしたので、
失礼ながら勝手に通らせていただきました。
「西山塾跡之碑」。
西山塾は大規模の塾だったようで、
門弟は百数十人を超えたという。
主に水戸学、日本外史等の国学や、
論語が教えられていたようで、
その門弟達の多くが攘夷、
国粋主義的な思想を持つに至り、
これが神代直人、団伸二郎といった、
狂信的な攘夷論者を育てました。
彼ら反骨の士が目立ってしまいますが、
後の内閣総理大臣である寺内正毅や、
歴代の大道村長なども輩出しています。
明治2年。
神代ら門弟が大村益次郎を暗殺すると、
大楽は首謀者と疑われて幽閉。
塾は閉鎖しています。
■関連記事■
・福岡県久留米市 遍照院/高山彦九郎墓所
大楽は久留米で暗殺されました。
・山口県防府市 大楽源太郎墓所
防府にある大楽の墓所。
・山口県防府市 繁枝神社/大楽先生之碑
大楽の顕彰碑がある神社。