大道‐秋保間の県道25号線の側道に、
大楽源太郎の墓所への入り口があります。
「大楽源太郎先生墓所入口」。
これ行けるの?というような入口。
奥もけもの道のようになっていますが、
迷わずにたどり着けます。
少し行くと3つの墓石が現れました。
そのひとつが大楽源太郎の墓です。
「大楽奥年夫婦之墓」。
大楽は久留米藩で殺害されており、
遺骸は久留米の遍照院に葬られた為、
これは供養墓ということになりますが、
妻りちは葬られているようです。
他のひとつは大楽家累代の墓ですが、
もうひとつの墓は不明。
時習斎重保と山縣宗玄という人の墓ですが、
これらの人物は調べてもわからない。
[門人建之]と刻まれていますので、
何らかの先生だったようです。
師月性の時習館と関連ありそうですが、
たまたまかもしれません。
大楽は寄組児玉家家臣山縣信七郎の長男で、
同家臣大楽助兵衛の養子となりました。
萩で吉松淳蔵に漢学を習っていますが、
久坂玄瑞や高杉晋作も学んでいますので、
2人とは旧知であったと思われます。
後に実家山縣家と共に防府大道村へ移転し、
右田の儒学者大田稲香の学文堂に数年通い、
柳井の勤皇僧月性の門下となりました。
安政2年には月性と共に上京し、
頼三樹三郎の家に寄宿。
頼に勤皇学者桜任蔵を紹介されていますが、
月性の急死の報を聞いて一時帰国します。
再び京に戻ると梅田雲浜に師事。
同門下赤禰武人らと尊攘運動を行いますが、
安政の大獄で師の雲浜が捕らえられ、
これを救出しようとして、
幕府の捕吏から追われますが、
長州へ逃げて幽閉処分を受けました。
後に密かに水戸へ赴き、
斎藤監物と大老暗殺を計画しますが、
事前に藩に察知されて連れ戻され、
再び幽閉されてしまいます。
桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺され、
下火となっていた尊攘運動が活発となり、
大楽も許されて京で活動。
長州志士や他藩志士と行動を共にし、
何らかの理由で帰国させられましたが、
すぐに藩命で加藤有隣と共に京都へ戻ると、
八月十八日の政変によって、
長州藩は京から追放となりました。
大楽は長州には帰国せずに潜伏し、
冷泉為恭暗殺事件を起こしています。
後の禁門の変では山崎隊の書記として参戦。
長州藩の敗北によって帰郷しましたが、
高杉晋作が功山寺でクーデターを起こし、
諸隊が次々に呼応すると、
大楽も忠憤隊を組織してこれに参戦します。
俗論党を打倒して正義派政権が誕生すると、
隊を離れて大道で私塾を開き、
幕長戦争、戊辰戦争には参加していません。
維新後、急激な西洋化が進み、
特に軍制改革を主導する大村益次郎が、
武士達の反感を一身に買い、
京都で刺客に襲われて重症を負い、
2ヵ月後に大坂で死亡します。
刺客は大楽の門下が中心となっていた為、
首謀者の嫌疑が掛けられて、
大楽は主君児玉若狭より幽閉。
これによって塾は閉鎖となります。
兵制改革によって諸隊に解散が命じられ、
それを不服とした諸隊士が脱走。
三田尻に集結して藩庁を取り囲みます。
この事件でも大楽は首謀者と疑われた為、
脱出して高田源兵衛(河上彦斎)に匿われ、
後に久留米藩の応変隊に匿われました。
応変隊は未だ攘夷思想が根強く、
幹部らは大楽を歓迎。
一揆と連携して日田県庁を襲撃しています。
また攘夷派公卿の愛宕通旭と外山光輔は、
政府転覆の反乱(二卿事件)を計画。
大楽は彼らと連絡を取り合っていた為、
その計画が政府に察知されると、
熊本藩兵が久留米城を接収する事態となり、
政府の厳しい追求を受けた応変隊は、
藩の存亡も危い状態となり、
仕方なく匿っている大楽を斬る事を決意。
川島澄之助、吉田足穂、大田茂、
松村雄之進、柳瀬三郎の5人は、
大楽と弟の山縣源吾、門弟の小野新、
従僕の村上要吉を誘い出し、
4人は筑後川の河原で惨殺しました。
遍照院にある大楽ら4人の合葬墓には、
[耿介四士之墓]となっています。
耿介は[堅く節操を守り、
俗世間にまじわらないさま]の意で、
まさに大楽のような者達の言葉でした。
■関連記事■
・福岡県久留米市 遍照院/高山彦九郎墓所
久留米で殺された大楽ら4名の合葬墓。
・山口県防府市 繁枝神社/大楽先生之碑
大楽の顕彰碑がある神社。
・山口県防府市 西山塾跡
大楽の開いた私塾。