長距離移動といえば現在は自動車か、
はたまた電車や飛行機、
フェリーや高速バスなど色々あります。
江戸時代でいえば馬が自動車の代わりで、
電車や飛行機の代わりは船でしょうね。
現在の防府市にある富海は、
大坂までの高速船「飛船」の港として、
藩の役人や志士らを乗せています。
元々富海は古くからの漁村でしたが、
漁船を使って近隣の島や港に、
人や荷物を運ぶのを請け負っていました。
そのうち宮島詣の人々を乗せるようになり、
鞆ノ浦や琴平にも足を伸ばします。
数ある港の中で富海の船が選ばれたのには、
三田尻に近かった事もありますが、
富海の船が非常に早かったから。
「飛船」と呼ばれたこの富海の船は、
資料が失われ詳細は不明ですが、
前後で艪を漕いで航行したという。
江戸中~後期頃に飛脚を運ぶようになり、
そのうち大坂への定期便が運行され、
最盛期で60~80隻が活躍したとの事。
まさに空港や新幹線駅といった感じでした。
現在の富海には飛船問屋の船倉が現存し、
当時の繁栄を感じさせてくれます。
※記事はこちら。
現存する船倉が並ぶ場所から、
旧山陽道を西へ進んだ道脇に、
飛船問屋大和屋政助の墓があります。
旧山陽道脇に共同墓地が2つあって、
その東側です。
「尊攘義民大和屋政助墓」。
大和屋政助は本名清水与兵衛と称し、
富海の飛船問屋大和屋の主で、
町方の世話役でもありました。
勤皇の志篤く徳山藩へ軍用金百両を献納。
中山忠光が長州に落ち延びた際には、
大坂より富海に上陸後、
船倉の2階でしばらく匿い、
高杉晋作が俗論党に追われた際には、
嵐の中船を出して下関に送り届けています。
墓石の揮毫は品川弥二郎によるもので、
傍にある石灯篭も品川の寄進。
同じ墓地の奥の方には、
入江石泉の墓もありました。
「従六位入江石泉翁之墓」。
町年寄入江石泉は海防僧月性に学び、
私費を投じて文学堂や演武堂を設立し、
富海の尊攘思想の指導者だった人物。
彼らような勤皇商人が多く居たようで、
彼らの陰ながらの活躍が無ければ
維新は成し遂げられなかったでしょう。
■関連記事■
・山口県防府市 富海宿と船蔵
大坂への最速便「飛船」の船倉跡。
・山口県防府市 周防国分寺
防府は文字通り周防の国府があった場所。
・山口県山口市 一の坂御建場跡
萩往還最大の難所。