大楽源太郎の関連史跡を巡りましたが、
当日は残念ながら雨が降っていました。
大楽は神代直人の師だった事もあり、
狂信的な変骨攘夷親父のイメージでしたが、
吉田松陰より2歳下で、
桂小五郎より1歳上と意外と若い。
※松蔭より4歳下、桂より1歳下の説も。
久坂玄瑞ら松蔭門下や、
赤禰武人とも交友しており、
禁門の変や長州内訌戦にも参加しています。
彼が他の長州志士らと一線を画すのは、
国粋主義を貫いた事でしょう。
尊皇の先には倒幕に行き着くわけですが、
強大な幕府を倒すには、
諸外国の武器や戦法を利用する必要があり、
必然的に攘夷を捨てざるをえません。
また諸外国から日本を守るためには、
外国の技術を大いに取り入れて、
対抗できる力を得なければなりません。
これは国粋主義的な者達は納得がいかない。
アヘン戦争や不平等条約などの情勢から、
これはマズイと攘夷を主張した者と、
外国人が日本の地に足を踏み入れる?
けしからん!と、
攘夷を主張した者では違うわけです。
幕府けしからんって言ってる間は、
充分に共闘できるのですが、
軍備揃えて、さあ!倒幕だ~って段階で、
日本人なら刀だろ?って言う人がいたら、
周りから疎んじられるわけです。
そういう連中は大楽に限らず居たわけで、
河上彦斎なんかもそういう類でしょう。
近代化が必ずしも良かったとはいえず、
間違っていたわけではないでしょうが、
あまりにも寛容性が無かった。
佐久間象山や大村益次郎ら逸材を、
彼らにより失う結果となったのは、
日本にとって大きな損失だった事でしょう。
その大楽の顕彰碑が繁枝神社にあります。
「繁枝神社」。
飛鳥時代創建の地元鎮守の神社で、
かつて繁枝八幡宮と呼ばれていましたが、
周辺神社6社と合祀して改称しています。
「大楽先生之碑」。
門人の寺内正毅らが建立した碑。
大楽は慶応2年に私塾を開き、
子弟の教育を行っていましたが、
この門人らに神代直人、団紳二郎らがおり、
脱退騒動を起こした奇兵隊士の中にも、
多くの門人がいたという。
大村暗殺、脱退騒動の首謀者として、
大楽本人も容疑を掛けられており、
二卿事件にも関与した事から、
狂信的攘夷論者と思われていますが、
勝海舟曰く「話せる男」だったという。
勝は会った事の無い人物に対しても、
あれこれと評価していますし、
多分に盛っている事も多いのですが、
その話が的を外している事は無い。
大楽を殺害した久留米藩士達は、
その首級に酒を添えて泣いたとされ、
大楽の墓の隣に自らの墓を、
建てて欲しいと遺言したりしています。
これらの事から慕われた人物だったようで、
文献には残らない何かあったのかも?
■関連記事■
・福岡県久留米市 遍照院/高山彦九郎墓所
大楽は久留米で暗殺されました。
・山口県防府市 大楽源太郎墓所
防府にある大楽の墓所。