奥の院墓地にある久留米藩有馬家の墓所。
久留米藩有馬家の墓所も複数あります。
「久留米藩有馬家墓所」。
久留米藩有馬家は摂津有馬家の支流で、
摂津有馬家は有馬義祐を祖とし、
戦国時代には三好長慶の配下になりますが、
嫡流は荒木村重に滅ぼされています。
後に分家の有馬則頼が羽柴秀吉に仕え、
戦功を挙げて大名に昇進しました。
秀吉の死後は徳川家康に接近し、
驛ヶ原の戦いでは東軍として参加。
その功績により福知山藩6万石に封ぜられ、
則頼の子有馬豊氏も大坂の陣で活躍し、
後に久留米藩21万石の藩主となっています。
右側より、
「壷源院殿賢岸道大居士」、
「瓊林院殿龍室道雄大居士」、
「梅巌院殿唯翁道秀大居士」、
「大慈院殿圓山道通大居士」。
3代藩主有馬頼利の墓、
2代藩主有馬忠頼の墓、
6代藩主有馬則維の墓、
7代藩主有馬頼徸の墓。
2代忠頼は初代藩主豊氏の次男に生まれ、
父に従って島原の乱に参陣しています。
久留米藩政の基礎固めに務めてますが、
冷酷な性格を持っていた様で、
従わない者、気に入らない者には残忍で、
年貢の取り立ても厳しく行わせたという。
参勤交代中に病死していますが、
恨みによる暗殺説もあるようです。
3代頼利は2代忠頼の長男として生まれ、
父の死去により僅か3歳で家督を相続し、
成長するまで藩政は家臣団が担いました。
頼利は聡明で学問を好んだ為、
家臣団より将来を期待されましたが、
僅か17歳で病死しています。
6代則維は遠縁の旗本石野則員の五男で、
旗本有馬則故の養子となっていましたが、
5代有馬頼旨が継嗣無く死去した為、
末期養子となって家督を継ぎました。
困窮する財政を立て直す為に改革を行い、
役人の整理や官吏の登用などを行い、
倹約令などを出しています。
7代頼徸は6代則維の四男として生まれ、
父の隠居によって家督を相続。
優れた藩主であったようで、
将軍徳川吉宗に倣って目安箱を設置し、
広く意見を求めて善政を布いた他、
飢饉には救済米などを施しています。
また学問を好んで広い知識を有しており、
特に算術に掛けては当時一流の学者でした。
54年の治世でも藩は比較的安定しており、
「久留米藩の吉宗」と賞賛されています。
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