久保田藩佐竹家の藩庁は久保田城ですが、
大館城は一国一城令の例外とされた支城で、
他にも横手城がありました。
久保田藩佐竹家が支城を許されたのは、
その領地が広大であった事と、
関ケ原で中立を保っていた佐竹家を、
常陸一国… 続きを読む
秋田県大館市 大館城跡
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久保田藩佐竹家の藩庁は久保田城ですが、
大館城は一国一城令の例外とされた支城で、
他にも横手城がありました。
久保田藩佐竹家が支城を許されたのは、
その領地が広大であった事と、
関ケ原で中立を保っていた佐竹家を、
常陸一国… 続きを読む
相馬大作事件は盛岡藩士の下斗米秀之進が、
弘前藩主を暗殺しようとした事件。
文政4年(1821)に発生したこの事件は、
下斗米が相馬大作と名を変えて潜伏した為、
相馬大作事件と呼ばれました。
吉田松陰はこの事件に強い影響を受けており、
事件から30年後の東北遊学の際に、
その暗殺未遂の現場を訪れて、
案内人に暗殺が成功したかを訪ねています。
※ただ松陰は場所を勘違いしており、… 続きを読む
弘前藩の海の玄関として栄えた鯵ヶ澤湊。
廻米を舟に乗せて弘前から岩木川を下り、
十三湖から海へ出て鯵ヶ沢湊まで運びました。
この鯵ヶ沢湊から北前船に乗せられて、
上方などに廻米が運ばれた訳ですが、
その他にも日用品の荷揚げも行われおり、
湊は大変な賑わいだったようです。… 続きを読む
米の出来ない蝦夷地を領地とする松前藩は、
交易の運上金が主な収入源でした。
ニシンや鮭、昆布などの海産物は、
北前船で大坂へと運ばれ、代わりに酒… 続きを読む
新撰組の二番組組長永倉新八は松前藩出身。
とはいえ江戸詰家臣長倉勘次の次男で、
江戸で生まれて松前では育っていません。
永倉は神道無念流を習得して剣術に傾向し、
後に剣の道を究めたいと脱藩。
数々の道場で腕を試した後、
試衛館の食客となって近藤勇らと共に、
清河八郎… 続きを読む