出張で八幡浜市に宿泊しておりまして、
隣の大洲市にある大洲城に行ってみました。
17時に仕事が終わったのですが、
カーナビの所要時間は30分ということで、
暗くならないうちに行けるだろうと、
車を飛ばします(勿論安全運転で・・)。
八幡浜から大洲に行くには、
大変長い[夜昼トンネル]を通ります。
夜昼というの名の由来は、
トンネルが出来る前の街道夜昼峠から。
八幡浜―大洲間はその峠を越える為、
その為に古来から八幡浜と大洲は、
隣同志の割にその交流が少なく、
使用する方言も文化も違っていたという。
トンネルを抜けたら真っ暗!
・・だったら嫌だなと思いつつ、
夜昼トンネルを抜けると、
まだ暗くなっていませんでした(笑)。
「大洲市民会館」。
大洲市民会館前の駐車場に車を止める。
有料駐車場で1時間150円なのですが、
時間的に半額だったようで75円でした。
駐車料金に5円玉を出したのは初めて(笑)。
この駐車場は内堀のあった場所で、
市民会館の建っている場所は、
二の丸の蔵が並んでいたという。
「苧綿櫓」。
市民会館右側にある現存する櫓のひとつ。
[苧綿(おわた)]という名称どおり、
綿を貯蔵していたようです。
「櫓下御門(二の丸大手門)跡」。
市民会館の左側にあります。
「天守」と「高欄櫓」。
天守は明治21年に取り壊されましたが、
平成16年に明治期の古写真や、
天守雛形などの史料をもとに、
当時の工法を用いて復元されています。
そして高欄櫓は現存のもので、
名称通り2階に高欄のある櫓。
「天守」と「台所櫓」。
台所櫓も現存の櫓で、
内部に土間を配しており、
煙出用の格子窓が開けられて、
名称通り台所として使用されました。
「光烈無窮(加藤公頌徳碑)」碑。
大洲藩主加藤家の徳を称えたもの。
明治天皇の侍従長徳大寺実則の題額。
「日露戦役紀念」碑。
よくある日露戦争の碑なのですが、
よく見ると[希典書]となっていました。
乃木希典の書のようです。
本丸からは肱川が望む。
大洲城が築城された際、
川に面した高石垣の工事が難航した為、
人柱を立てる事となって、
おひじという女性が人柱となってます。
そのおかげか工事は無事完了。
おひじに感謝して肱川と改めたという。
大洲城の別名[比志城]も、
おひじに由来するそうです。
なにやら小さな石碑を発見。
なになに[戊辰奥州之役・・武成隊]!
おおお!幕末関連みっけ!
「武成隊」碑。
武成隊は甲府城警衛を命じられた大洲藩が、
二個小隊を編成した際に名付けた隊名。
甲府城警衛を終えると海路平潟へ出征し、
奥羽討伐軍に合流して戦果を挙げました。
幕末大洲藩は早くから藩論を勤皇に定め、
大政奉還後に家老大橋播磨が上洛。
鳥羽伏見の戦いでは新政府軍となり、
戦況が不利になった際の天皇動座計画で、
乗輿守護の密命を受けていました。
伊予松山藩にも出兵しており、
伊予松山藩の恭順後は、
松山城下の萱町口警備についています。
大洲藩は甲府城警衛を命じられ、
武成隊を組織して甲府城の警備や、
その後の奥州征伐に出陣して戦功を挙げ、
論功行賞では賞典金2000両を賜ります。
【大洲藩】
藩庁:大洲城
藩主家:光泰流加藤宗家
分類:6万石、外様大名
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大洲藩加藤家の菩提寺。
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大洲藩の支藩新谷藩の陣屋跡。
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いろは丸が入港した大洲藩の港。
・広島県福山市 鞆の浦①
いろは丸は紀州藩の軍艦明光丸と衝突。
家紋 花車から違い井桁に?
大橋家の謎?が解けました。
>大橋様
コメントありがとうございます。
家紋は奥が深くて言及する程の知識はありません。
違い井桁紋は横長でカッコいいですよね。