島津宗家8代当主である島津久豊は、
日向伊東家との戦いを繰り広げ、
応永32年(1425)に鹿児島で病没したという。
そして島津家菩提寺福昌寺にて葬儀が行われ、
四十九日から十三回忌までの法要も、
同寺にて行われて墓碑も建立されています。
しかしその遺骸の埋葬地は記載はなく、… 続きを読む
宮崎県宮崎市 島津久豊墓所
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島津宗家8代当主である島津久豊は、
日向伊東家との戦いを繰り広げ、
応永32年(1425)に鹿児島で病没したという。
そして島津家菩提寺福昌寺にて葬儀が行われ、
四十九日から十三回忌までの法要も、
同寺にて行われて墓碑も建立されています。
しかしその遺骸の埋葬地は記載はなく、… 続きを読む
慶応元年に神戸海軍操練所は廃止され、
勝海舟は軍艦奉行を罷免され、
勝の私塾神戸海軍塾も閉鎖となります。
坂本龍馬ら塾生の後事を案じた勝は、
彼らの庇護を薩摩藩に依頼。
薩摩藩は彼らに給金を出しており、
海軍塾出身の浪士集団が形成されました。
これが亀山社中となり… 続きを読む
栗野麓は室町時代に北原氏が治めた地で、
戦国時代に島津家がこれを奪い、
島津義弘が松尾城(粟野城)を拠点とし、
伊東義祐と戦って勝利しています。
江戸時代は薩摩藩の直轄地となり、… 続きを読む
明治10年6月20日。
大口の戦いに敗れた雷撃隊隊長辺見十郎太は、
敗走する際に池田の松並木で馬を止め、
高熊山を振り返り遠望しながら、
「死をとして固守すること四句あまり
ついに要害の地高熊山をクソ鎮に奪わる。
あぁ、わがことすでに終る」と、
松の木に持たれて無念の涙を流したという。
「辺見十郎太 … 続きを読む
馬越麓は菱刈家が治めていた地で、
馬越城の城下町であった場所。
永禄10年(1567)に島津家により攻略され、
永禄12年(1569)に島津家の領地となります。
江戸時代は薩摩藩の直轄地となり、
馬越御仮屋が置かれて麓(郷、外城)が形成され、
中央より地頭が派遣されました。
「… 続きを読む
大口麓は薩摩国北端にある外城で、
肥後国との国境近くにあります。
戦国時代には新納忠元が地頭と務め、
国境の備えとして睨みを利かしており、
江戸時代は薩摩藩の直轄領となって、
地頭が詰める大口御仮屋が設置されました。
「… 続きを読む
御所の南西角に椋の巨木があります。
この木は樹齢300年とされており、
清水谷家の邸内にあったもの。
この清水谷家は西園寺家(清華家)の一族で、
西園寺公経の二男一条実有を祖とし、
8代一条実秋が摂関家… 続きを読む