続き。
①/②/③/④/⑤/⑥
嘉永2年7月13日
①早朝より浦の漁舟で出航。
幅7尺、長さ3丈の丈夫な造りの船で、
この船は対馬まで行けるという。
戦時に徴用できそうである。
古城山、矢倉山… 続きを読む
吉田松陰の北浦巡視④
コメントを残す
長州藩は直轄地を宰判という行政区に分け、
代官を置いて行政にあたらせていました。
宰判には勘場と呼ばれた役所が設けられ、
租税徴収、治安維持、裁判等が、
行われています。
「長門市立菱海中学校」。
先大津宰判勘場があった場所は、
現在は長門市立菱海中学校になっています。
「… 続きを読む
彦島に竹の子島という小さな島があります。
吉田松陰の海防視察日記[廻浦紀略]では、
松陰がここに上陸して視察を行っており、
南風泊から小船で竹の子島に渡り、
壱之台、弐之台、六之台を巡視しました。
松陰は小船で渡りましたが、
現在は橋が架けられていますので、
車でそのまま上陸する事が出来ます。
※下関駅から直通のバスもあります。… 続きを読む
吉田松陰の視察日記[廻浦紀略]によると、
松陰は嘉永2年7月16日、
引島(彦島)福浦の金毘羅山に登っています。
この金毘羅山に灯籠堂があったそうで、
福浦に来る船の目印とされていたという。
金毘羅山は金刀比羅宮建立後の名前で、
富観台とも呼ばれていますし、
それまでは頭兜山… 続きを読む