長州藩領は現在の山口県とほぼ同じ。
西南北三方が海に囲まれています。
そういう地理的条件に加え、
実際に元寇の攻撃にも遭っていたり、
元々海防の関心が強かったという。
江戸中期より露船が現れるようになり、
海防が現実味を帯びるようになった事と、
幕府が異国船打払令を発した事で、
領内海岸線に多数の砲台が設置されました。
山鹿流兵学師範だった吉田寅次郎(松陰)は、
異賊防禦の策や水陸戦略などを著し、
藩に対外国戦の策を述べており、
これを受けて長州藩政府は松陰を、
外冦御手当御内用掛に任命し、
既に設置されている砲台や、
領内の海岸線防備の踏査を命じました。
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実際はこの「廻浦紀略」以前に、
萩より東側海岸を巡視しているのですが、
それは廻浦紀略には書かれておりません。
※嘉永2年6月27日に萩を出発して、
石見境(今の須佐田万川)まで巡視し、
7月2日に戻っています。
吉田松陰の須佐巡見
①4日、5日と悪天候で足止めを食らう。
7月6日にやっと出向することとなり、
関船和布刈通と小早船御用丸が出航。
道家龍左衛門、飯田猪之助、森重政之進、
そして松陰が和布刈通に乗り込み、
多田藤五郎、大西喜太郎、郡司源之允が、
御用丸に乗り込んだ。
※多田、大西、郡司は共に軍学師範で、
海防の専門家達だったようです。
この頃の松陰は吉田寅次郎ですが、
松陰に統一して記載します。
②一行は三見之浦へ上陸。
周辺の地形を調べる。
周辺の寺社を調べ兵の駐屯地を検分。
砲台を築くならば西浜が良いだろう。
船に乗って西へ。
明石、伊井、津雲を通過し野波瀬へ向かう。
御用丸は明石あたりで別れて相島へ。
③和布刈通は野波瀬に到着。
山口県長門市 野波瀬湊
上陸して検分。
この野波瀬は袋の底のような地形。
野波瀬よりまっすぐ青海島の通浦へ。
④通浦の御番所下に到着。
山口県長門市 通浦
御番所で休憩。
横浜台場、真光寺後台場を視察して、
壇浦から小舟に乗って、
番山の狼煙場や旧台場などを視る。
戻って住吉社台場に寄り和布刈通に帰る。
通浦の役人曰く、
「火薬庫が瀬戸崎と合同で不便」
船は船越へ。
※通浦は古式捕鯨で栄えた村。
⑤船越から陸路で外海に出て絶景を望む。
戻って船に乗り瀬戸崎(仙崎)に向かう途中、
大日比浦を遠望するが暗くて見えない。
⑥和布刈通は瀬戸崎(仙崎)に着き、
この日の巡視は終了。
山口県長門市 仙崎湊
通浦や瀬戸崎が栄えているのは、
捕鯨が盛んなのだろう。
廻浦紀略の行程1
続く。
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