慶応元年。長州内訌戦に勝利した奇兵隊は、
来たるべき幕府との戦いに備えて、
下関への転陣命令が出されます。
当初、長府に転陣する予定でしたが、
「差し支える事」があり、
吉田郷に転陣する事となりました。
この「差し支える事」とは、
「馬関開港論」によって、
長州藩と長府藩との間に溝ができた時期で、
長府に駐屯できる状態ではなかったという。
後に開港論はうやむやになり、
その溝は無くなっていましたが、
とにかく吉田郷に駐屯する事になります。
始めは大掛かりな陣屋は作られず、
吉田郷の神社仏閣に駐屯。
慶応2年の幕長戦争の終了後に、
正式に吉田が奇兵隊の本拠地となり、
吉田陣屋か作られた後は、
吉田郷全体を要塞化する為に、
そのまま駐屯された寺院もありました。
今回行った法専寺もその一つ。
吉田郷の南東側に位置していた為、
南東側を守る砦として隊士が駐屯しました。
東行庵から南下して県道260号を進むと、
北に分かれる道があり、
その道を入ってすぐのところにありますが、
入り口がわかりづらく、
案内もないので見逃してしまいそうでした。
参道は長くなかなか雰囲気があります。
落ち葉やクモの巣が多く、
人が通ってる風では無かったのですが、
それもそのはずで、
車で行ける別の道がありました。
長い参道を進むと「山門」が現れる。
石州瓦のようです。
「本堂」。
これも石州瓦です。
みよちゃんは本堂の階段に座っておすまし。
設置されている案内板はなんとも残念。
奇兵隊が「騎兵隊」になっています。
金属製の立派な案内板なのに・・・・・・。
案内板にも書かれていますように、
この寺には首を斬られたお地蔵様がいます。
お地蔵様の首を斬ったのは、
後の陸軍中将鳥尾小弥太。
奇兵隊の少年隊隊長だった鳥尾は、
日本の本来の宗教は神道であり、
仏教がはびこるのは許せんと、
部下を連れて六地蔵の首を斬ったのだとか。
こちらがその六地蔵様。
首は修復されています。
鳥尾は乱暴者だったようで、
親からも勘当されていたらしい。
奇兵隊が寺で世話になっているのに、
バチ当たりだし恩知らずな・・・。
廃仏毀釈は神仏分離令よりの思想ですが、
そもそも神仏分離令は、
神道と仏教の分離が目的で、
仏教を破棄するという意味ではなく、
一部の湾曲した過激思想が、
寺院にとって悲劇となりました。
鳥尾が地蔵の首を斬ったのは、
この廃仏毀釈運動より前のはずですが、
同様の考えからの行動でしょう。
とはいえ鳥尾の晩年は仏教に帰依し、
参禅生活をしていたそうです。
地蔵の首元を見ると補修の跡がわかります。
四番小隊長阿川四郎の墓もあるようですが、
見つけられませんでした。
草に埋もれてる墓もあるし断念。
下調べが必要ですね。
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