岩手県盛岡市 盛岡城跡

盛岡城盛岡藩南部宗家20万石の居城。
南部家は南部三郎光行を祖とする名門で、
宗家三戸南部家南北朝期より勢力を伸ばし、
戦国時代には陸奥北部最大勢力となります。
やがて天下の気勢が豊臣秀吉に傾き、
小田原征伐が行われると、
26代当主南部信直は兵を率いて参陣。
奥州仕置で10万石が安堵されました。

南部家は秀吉が死去すると徳川家康に接近。
会津の上杉征伐を命じられて、
最上義光の後援として山形に出陣しました。
しかし同じく征伐に出陣した伊達政宗は、
没落した和賀忠親を煽動して一揆を起こさせ、
南部家の領地切取りを画策。
合戦を終えた27代南部利直が引き返し、
一揆勢を鎮圧して事なきを得ています。
大阪の陣にも参戦して幕府との関係を深め、
不来方に新たに総石垣の城を築城。
地名を盛岡と改めました。


下曲輪跡」。
盛岡城の北東側に突き出していた出丸で、
現在は全体が商店街となっており、
先にある櫻山神社の門前町のなっています。
鳥居のあたりに綱御門があったようで、
その奥が虎口になっていました。
下曲輪内には勘定所が設けられ、
城下の民政が取り仕切られていた様です。


鶴ヶ池」。
下曲輪を囲む鶴ヶ池と呼ばれる内堀
土累上に建てられている鐘楼は、
城下に時を知らせる鐘で、
明治期に移設されたものです。


櫻山神社」。
鳩森下曲輪跡に鎮座する神社。
7代藩主南部利視によって、
盛岡城の淡路丸に建立された社で、
初代藩主南部信直を祀ったものでした。
維新後に盛岡城が廃城となった際、
城外に仮遷座していましたが、
旧士族や領民によって現在地に遷座。
現在は家祖南部家始祖三郎光行、
初代藩主南部信直、3代藩主南部利直
11代藩主南部利敬も合祀され、
4柱を郷土守護の神として祀っています。


戊辰戦役殉難者慰霊之碑」。
盛岡藩は勤皇派藩士の比較的多い藩でしたが、
主席家老楢山佐渡により方針が決定され、
奥羽越列藩同盟に参加して久保田藩領に侵攻。
久保田藩の支城大館城を落としていますが、
佐賀藩兵弘前藩兵の参戦で膠着状態となり、
一進一退の攻防戦が繰り広げられています。
しかし同盟諸藩が相次いで離脱する状況に、
国許が降伏を決定し停戦命令が出され降伏。
楢山は敗戦の責で斬首となりました。
また降伏後に弘前藩野辺地に侵攻した為、
八戸藩七戸藩と共にこれを撃退しています。
碑は盛岡藩の戊辰役戦死者を慰霊したもの。


史跡 盛岡城址」碑。
三ノ丸へ入る虎口前にある碑。
瓦御門と呼ばれる櫓門があったようです。
盛岡城は度重なる中津川氾濫により、
なかなか築城工事が進まなかったようで、
その完成には40年の歳月が掛かりました。


三ノ丸」跡。
盛岡城の古地図を見る限り、
三ノ丸に建物は無かったようで、
広場のような場所でした。


烏帽子岩」。
盛岡城の築城の際、
この場所は二ノ丸と同じ位の高さで、
地形を削り高さに合わせようとしますが、
そこには三角状の巨岩がありました。
そこでその岩を取り除こうとし、
周囲の土を掘り進めるのですが、
掘っても掘っても岩の根が出てこない。
やがて全ての土が取り除かれ、
烏帽子のような岩を見た3代南部利直は、
この岩の出現を吉兆と慶んで、
城と藩の守り石として残す事にしました。
パワースポットとしても知られています。


二ノ丸」跡。
政務を司る中之丸御殿があった二ノ丸跡


石川啄木歌碑」。
明治を代表する歌人石川啄木は盛岡出身。
盛岡中学校の生徒だった啄木は、
学校を抜け出し文学書、哲学書を読みふけり、
昼寝の夢を結んだとされています。
碑は啄木生誕70年を記念して建立。
不来方のお城の草に寝ころびて
    空に吸はれし 十五の心 啄木



新渡戸稲造記念碑」。
5千円札の肖像だった新渡戸稲造も盛岡出身。
新渡戸は帝国大学英文科へ入学する際、
願わくはわれ 太平洋の橋とならん
という言葉を発したとされます。
日本の思想を外国に広め、
外国の思想を日本に普及したいという意味で、
太平洋の橋とならんと言ったとの事。
新渡戸は「武士道」を英文で著して、
外国に武士道を紹介しています。


渡雲橋」。
二ノ丸と本丸を繋ぐ朱色の橋
藩政時代は廊下橋であったようです。


下から見た渡雲橋。

渡雲橋を渡って本丸跡へ。

本丸」跡。
本丸には本丸御殿が置かれていました。
藩主が政務を行う中奥と、
私的住居である大奥に分かれてたようです。


南部中尉銅像台座」。
42代当主南部利祥像のあった台座。
利祥は15代藩主南部利恭の長男で、
陸軍に仕官して日露戦争に従軍し、
近衛騎兵第一中隊第三小隊長に任命され、
満州に渡っています。
そこで皇族軍人竹田宮恒久王と並んで行軍中、
なにげなく両者の位置が入れ替わった際、
流弾が飛んできて戦死してしまいます。
この話は竹田宮が証言した話ですが、
利祥が戦死した時に竹田宮は帰国しており、
記憶違い記録違いのどちらかともされます。
後に利祥の像が建立されましたが、
先の大戦の金属供出によって失われ、
現在は台座のみとなっています。

盛岡藩は弘前藩との不仲が知られています。
津軽為信は南部家に従属する立場でしたが、
南部家でお家騒動が発生した際、
後継者として石川信直九戸実親が対立。
為信は実親を推していますが、
実親が敗れて信直が当主となると、
反対勢力の為信は討伐の対象となります。
しかし近隣情勢が味方して討伐はされず、
その間に為信は勢力を拡大。
豊臣秀吉に取り入って地位の確立に成功し、
本領安堵と南部家からの独立を認められ、
主家であった南部家と対等になります。
また両藩は領地紛争も起こしており、
江戸時代を通じ両藩の関係は悪かったという。

11代南部利用は若輩で無位無冠でしたが、
弘前藩主津軽寧親従四位下を得ており、
また幕府が弘前藩の高直しを行った為に、
津軽家が南部家より格上となります。
盛岡藩士下斗米将真はこの状況に怒り、
寧親に対して辞官隠居を求め、
それが聞き入れられない場合は、
悔辱の怨を晴らす脅迫状を送りますが、
当然これは無視されています。
そこで下斗米は寧親の暗殺を計画。
大砲や鉄砲を用意して道中で待ち構えますが、
襲撃が密告によって露見した為、
下斗米は相馬大作と名を変えて逃亡し、
江戸で捕吏に捕えられて獄門となりました。

この事件は多くの者に影響を与え、
水戸藩藤田東湖下斗米将真伝を著し、
吉田松陰は襲撃予定現場を訪れ、
暗殺は成功したが弘前藩が隠蔽した
という噂の真相を地元住民に訪ね、
また下斗米を称える漢詩も作っています。

幕末期には家老楢山佐渡と東政図が、
改革の在り方を巡って対立。
政権が交互に入れ替わって混乱しますが、
戊辰戦争では楢山が同盟参加で藩論をまとめ、
盛岡藩は秋田戦争に参加します。
しかし戦況の悪化によって降伏が決定され、
責任者として楢山は斬首。
戦後処理は東らが取り仕切りましたが、
白石藩への転封を申し渡されました。
これに盛岡士民らが反対運動を展開し、
70万両の献納を条件に中止。
盛岡藩の存続が認められています。

南部家は賊軍の汚名を着せられましたが、
後に15代藩主南部利剛の娘郁子が、
皇族華頂宮博経親王に嫁いだ事により、
賊軍としての汚名が晴らされています。

【盛岡藩】
藩庁:盛岡城
藩主家:三戸南部家
分類:20万石、外様大名(国持)

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 同族の八戸藩南部家の居城。
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