富山県高岡市 高岡城跡

加賀藩は藩庁の金沢城の他に、
小松城を持つ事を許されていましたが、
それとは別に廃城となった筈の高岡城が、
密かに維持されていたようです。


外濠」。
現在の城跡は高岡古城公園として整備され、
建物は残されていませんが、
堀や土塀などが状態良く残っています。

大手門跡より城内へ。

高岡城跡」碑と、
高山右近像」。
大手門跡にある跡碑と高山右近の像。
この像どこかで見た事あるなと思ったら、
高槻城跡にある像と同じもの。
※記事はこちら
高山右近は豊臣秀吉バテレン追放令で、
信仰を守る事によって改易されており、
小西行長に庇護された後、
前田家の客将となっています。
金沢城の掘削を指揮したりした他、
この高岡城の縄張りを担当しました。
後に徳川幕府によって国外追放処分となり、
マニラに送られて死去しており、
同じ像がマニラにもあるそうです。


高岡市護國神社」。
二ノ丸跡にある護國神社。
昭和10年創建で高岡の英霊を祀ります。
創建が昭和なので幕末の人物はいないかな?


内濠」。
本丸をコの字に囲む内堀。
かなり大きく幅広な水堀です。


本丸跡」。
本丸跡には射水神社が鎮座しています。
構造的に御殿は本丸にあったと思いますが、
高岡城は一応は廃城していたので、
江戸期には御殿は無かったでしょう。


射水神社」。
越中国一宮
江戸時代以前は二上山の山麓に鎮座し、
二上山大権現として崇敬されていましたが、
神仏分離令瓊瓊杵尊として祀られ、
明治8年に現在地に遷座されました。
城郭跡に鎮座する一宮はここだけ。


前田利長公」像。
射水神社の隣にある広場の隅にある像。
前田利長前田利家の長男で正室まつの子。
父利家と共に織田信長や豊臣秀吉に仕え、
五大老の一人として徳川家康に対しますが、
芳春院(まつ)の説得で交戦を回避。
関ヶ原の戦いでは越前丹羽長重と交戦。
この功で加賀、越中、能登三国を安堵され、
日本最大の加賀藩の基礎を作り上げました。
晩年は異母弟前田利常に家督を譲って隠居。
富山城を隠居城としていましたが、
火災で富山城の建物が焼失した為に、
高岡城を築城して余生を過ごしています。


瑞龍前田公遺徳碑」。
同じく広場の脇にある利長の遺徳碑。
瑞龍前田公は利長の戒名瑞龍院に因みます。


本丸之井戸」。
現存遺構。
多くの井戸が掘られていましたが、
現在残っているのは2つのみ。


朝陽橋」。
本丸と三ノ丸を繋ぐ朝陽橋
赤く美しい橋ですが当時には無かった橋で、
有事に掛けられる引橋があったようです。

三ノ丸から北内濠にある中の島へ。

服部嘉十郎顕彰碑」。
服部嘉十郎は高岡の総町年寄の子に生まれ、
幼少より経史、詩文、和歌などを学び、
高岡学館督学に就任した他、
廃藩置県後には戸長区長となりました。
高岡城跡の民間払い下げを阻止しており、
この功績を称えて開園80周年記念に際し、
この顕彰碑が建てられました。
しかし本人は身内の不幸が続いており、
自身も結核で31歳で病死しています。

中の島から三ノ丸へ戻る。

民部之井戸」。
高岡城にあった井戸のうちで最大のもの。
家老今枝民部屋敷があった場所ののようで、
民部の井戸と呼ばれていました。

高岡城は一国一城令で廃城となりましたが、
堀や土塁などは埋められずにそのまま維持。
跡地に米蔵塩蔵火薬蔵番所が置かれ、
街道から見えないように隠されました。
この例は仙台藩要害にも見られますが、
その規模は桁違いのようです。
管理は高岡町奉行所が担当していたようで、
町奉行城代の立場となっていましたが、
結局一度も戦火に晒されずに廃城となり、
市民の憩いの場となりました。

■関連記事■
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 加賀藩前田家の居城跡。
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 一国一城令の例外である支城小松城跡。