大津宿は東海道の53番目の宿場町。
※中山道の69番目の宿場も兼ねます。
東海道五十三次中最大の宿場とされ、
宿場町の他にも琵琶湖水運の港町、
三井寺の門前町という顔も持ち、
その繁栄は大津百町と称されました。
実際に江戸中期以降の大津には、
100以上の町があったという。
「歌川広重 東海道五十三次 大津」。
米俵を運ぶ牛車が連なる図。
大津宿では牛車の往来を助ける為に、
道に花崗岩が敷かれていたようで、
車石と呼ばれていたようです。
大津市街周辺。緑の線が東海道で、
青い線が西近江路、紫の線は大津湊への道。
青くぼかした辺りが宿場のあった場所。
京阪京津線上栄町駅を下り、
そこから大津宿跡を散策。
「肥前屋九左衛門本陣跡」。
大津宿の2つの本陣のひとつ。
遺構はありません。
「大阪屋嘉右衛門本陣跡(大塚本陣)」。
こちらも本陣のひとつ。
遺構はなく明治天皇聖跡の碑が建つのみ。
「八丁筋」。
大津宿の中心で旅籠が建ち並んでいました。
上記の2つの本陣もこの通りにあり、
緩やかな坂は大津湊まで続いています。
「札の辻」。
左(西)へ行けば琵琶湖西岸の西近江道、
右(東)へ行けば東海道(中山道)、
真っすぐ行けば大津湊へ至ります。
旅籠の客引き、運送の牛馬、往来の旅人で、
付近は多くの人で混雑していたという。
「京町通り」。
札の辻を東に行くと京町通り。
古い商家が残って往時の雰囲気を残します。
街道は大津を抜け膳所城城下を越えると、
瀬田川に架かる瀬田の唐橋。
街道筋より1本湖側の通りへ。
「丸屋町通り」。
アーケードとなっていますが、
通り沿いはシャッターが目立ちました。
※訪問が日曜だったからかもしれません。
大津百町は街道沿いに限らず賑わい、
街道筋を含め3本の道が東西に走り、
どれも賑わいを魅せていたという。
「寺田屋お登勢実家 枡屋跡」。
寺田屋お登勢の実家絶命の跡。
お登勢は公事宿舛屋の山本重助の次女で、
伏見の船宿寺田屋に嫁いでいます。
夫の寺田屋伊助は放蕩者だったようで、
家業はそっちのけで店には寄り付かず、
京に妾を囲っていたという。
寺田屋はお登勢が切り盛りしたようで、
多く志士の面倒をみていました。
この寺田屋では薩摩藩士の同士討ちや、
※有馬新七らが絶命。
伏見奉行所の踏み込みが行われ、
※坂本龍馬、三吉慎蔵が襲撃され、
脱出後に薩摩藩邸に保護される。
2度も歴史的事件の舞台となっています。
このお登勢の両親の墓が九品寺に現存。
「圓空頓岳壽貞禅定門
貞空紫宗妙雲禅定尼」。
寺田屋お登勢の両親の墓。
両親は早くに亡くなった様で、
枡屋は父重助の兄が家督を継いで、
明治24年まで存在していたとのこと。
大津宿の名物に大津絵があります。
神仏や人物、動物がコミカルに描かれ、
道歌が添えられたものでしたが、
お守りとしての効能もあったという。
藤娘は良縁、外法大黒は無病長寿など、
画題によって御利益が違ったようで、
その数は増え続けて続けて、
幕末には最盛期を迎えたようです。
■東海道の宿場町
■中山道の宿場町
■西近江路の宿場町
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東海道の52番目の宿場町。
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東海道の終点。