福岡県福岡市 住吉神社

住吉神社筑前国一宮
筑前国の一宮は他に筥崎宮があり、
一宮が2ヶ所ある事になっています。
筥崎宮は応神天皇を祀る神社ですが、
住吉神社は住吉三神を祀っており、
大阪住吉大社下関の住吉神社と共に、
三大住吉のひとつとされました。

神功皇后三韓征伐の帰路、
神託により住吉三神の荒魂穴門山田邑に、
※下関の住吉神社。
そして和魂大津渟中倉長峡に祀り、
※大阪の住吉大社。
それぞれ祠を設けたとされ、
これが2社の起源とされますが、
福岡の住吉神社は住吉三神の生まれた地で、
三韓征討以前に神功皇后が祠を設け、
依網吾彦男垂見に神主を命じたとされ、
最も早く創建された住吉社とされます。


一の鳥居」。
県道553号線沿いにあり、
住吉神社の正門にあたります。


天竜池」。
一の鳥居の道路向いにある池。
住吉神社周辺は昔は海だったようで、
境内が半島になっていたという。
天竜池はその海の名残とされ、
黄泉国から戻った伊弉諾尊が、
禊ぎを行った場所とのこと。
池に浮かぶ亀島には天津神社が鎮座し、
伊弉諾尊を祀っています。

一の鳥居を越えて境内へ。

表参道」。
博多の中心に位置しながら、
緑に囲まれた直線で長い参道。


神門」。
豪華な朱色が晴天に映えます。
両脇に随身像が守る随身門形式。
扁額は住吉宮となっています。


拝殿」。
入母屋造銅板葺の拝殿の築年は不明。
その後ろの本殿は元和9年(1623)の再建で、
福岡藩初代藩主黒田長政による造営。
住吉三神は底筒男命中筒男命
表筒男命の三神の総称で、
この住吉三神を祀る2129社のうちで、
最初に創建された神社とされており、
住吉本社日本第一住吉宮とも称されます。
創建は1800年以上前とされており、
建武元年(1334)の文書を初見に、
筑前国一宮の社格であったという。
中世以降に戦乱で荒廃していたようですが、
江戸時代に入ると福岡藩黒田家により、
社殿の再興が行われて隆盛。
社領50石も寄進されています。


唐門」。
本殿東側にある唐門
かつては南門付近にあった門で、
昭和60年に現在地に移築されたもの。
この門は市内唯一の平唐門とのことで、
非常に貴重なものとのこと。

伊邪那美命火之迦具土神を産んだ際、
大火傷を負って死んでしまいますが、
夫である伊邪那岐命はこれを良しとせず、
伊邪那美命を連れ戻そうと黄泉の国に行き、
腐敗したその姿に怖気づきます。
これに怒った伊邪那美命は、
黄泉の軍勢を率いて夫を追いますが、
伊邪那岐命は黄泉平坂を大岩で塞ぎ、
黄泉の国との境界を閉じました。
この夫の仕打ちに伊邪那美命は怒り、
1日千人を殺すと宣言すると、
伊邪那岐命は妻の宣言に対して、
ならば1日千五百人を産ませると返し、
こうして2神は離縁します。
伊邪那岐命は上記の亀島に辿り着くと、
※筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原。
黄泉の国の汚穢を洗い清めるを行い、
深い場所で底筒男神が生まれ、
中程の場所で中筒之男神が生まれ、
浅い場所で上筒之男神が生まれました。
これが住吉三神の誕生とされており、
後に神功皇后の身に憑依して、
熊襲より新羅を征討せよ
 我らを祀ればどちらも平伏する」と神託。
これを疑った仲哀天皇は流れ矢で崩御し、
神功皇后は神託に従って新羅へ出航すると、
新羅はおろか高麗百済も皇后に降ります。
住吉神社は神託を信じた神功皇后が、
三神の出生地に祠を建てたもので、
後に熊襲も降伏して神託は完成。
以降は航海守護の神として広く信奉され、
三大住吉を筆頭に全国に祀られています。

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