上田鳳陽は長州藩の儒学者で、
現在の山口大学の建学の祖とされる人物。
7代藩主毛利重就から13代毛利敬親まで、
鳳陽は7人の藩主に仕えており、
嘉永6年に85歳で死去しています。
山口大学の淵源は鳳陽開設の山口講堂とされ、
命日には学長以下理事やOBらが法要を行い、
新年の墓参も欠かさず行っているという。
その上田鳳陽の墓所は、
山口市大内御堀の乗福寺にあります。
「本堂」。
乗福寺は正和元年(1312)に大内重弘が創建。
周防最古の禅寺とされており、
興隆寺や仁平寺と共に大内三ヶ寺と称され、
大内文化の中心となった寺院でした。
大内氏が滅んで毛利家の時代となると、
寺運は減退して没落。
その殆どを移築、解体されるに至り、
諸堂のひとつ正寿院が寺名を受け継ぎ、
現在の乗福寺となっているという。
上田鳳陽の墓所は本堂の裏手。
「鳳陽先生墓(右)」、
「東陽服部先生墓(左)」。
山口講堂(現山口大学)始祖上田鳳陽の墓と、
鳳陽の高弟服部東陽の墓。
鳳陽は下級藩士宮崎猪兵衞在政の三男で、
上田平右衛門清房の養子となって家督を相続。
幼少期より学問好きだったとされ、
寛政12年(1800)に藩校明倫館に入学しました。
山県太華、中村牛荘らと儒学、国学を学び、
就学を終えると山口に帰郷。
山口に学問を学べる場所が無い事を憂い、
文化12年(1815)に山口講堂を開設します。
門人らの教育の傍らで研鑽を重ね、
天保5年(1834)には藩主毛利敬親より、
紋章入茶地金蘭織の布と自筆の聖号を下賜。
85歳で死去するまで教育に携わりました。
東陽は吉敷毛利家家臣服部長嘯の子で、
鳳陽に学んだ他にも亀井暢洲、佐藤一斎、
安積良斎、藤澤東涯らに学び、
文久3年に帰郷して山口明倫館助教に就任。
※藩営となり山口講堂より改称。
元治元年に俗論派に捕らえられ、
一時幽囚の身となってはいますが、
放免された後は再び山口明倫館助教となり、
毛利元徳の侍読も兼ねています。
明治2年に眼病に侵されて御堀に隠居し、
塾を開いて子弟を教えましたが、
明治8年に49歳で死去しました。
乗福寺には大内家の墓所もあります。
「大内重弘公の墓(右後)」、
「琳聖太子供養塔(中央)」、
「大内弘世公の墓(左後)」。
大内家7代当主大内重弘の墓、
大内氏始祖琳聖太子供養塔、
大内家9代当主大内弘世の墓。
琳聖太子は大内氏の祖とされる人物で、
百済の王族出身とされています。
日本に渡り聖徳太子より多々良姓と、
大内県を領地を賜ったという。
7代重弘は周防国の在庁官人で乗福寺開基。
鎌倉幕府の御家人となっており、
六波羅探題評定衆に任命されました。
9代弘世は南朝に属して満良親王を奉じ、
周防守護職に任じられて勢力を拡大。
居館を御堀から山口に移転させて、
大内文化発展の基礎を築いた人物です。
「学都山口 開祖上田鳳陽先生旧宅跡」。
乗福寺を北側から出て西へ進むと、
民家の前に旧宅跡の碑があります。
鳳陽が晩年居住した場所とのこと。
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