下関と彦島の間にある細い海峡を、
小門または小瀬戸と言います。
小門の夜焚という舟遊びが有名だった場所で、
松明を焚いた小舟浮かべ、
その明かりに集まった魚を網で捕らえ、
舟の上で料理して食べる風流な遊びでした。
安政の大獄で処刑された頼三樹三郎の父で、
「日本外史」の著者でもある儒学者頼山陽や、
晋作が愛した南画家田能村竹田も、
小門の夜焚で遊んでいます。
現在の小門。向こう岸が彦島。
晋作もこの小門の夜焚で遊んだようで、
その様子を詠った漢詩なども残されています。
さて、ここにある報済園という廃墟(!)に、
晋作と七卿が国事を話し合った事を記した碑が、
建てられているというので行ってみました。
この報済園は化粧品問屋藤津良蔵が、
明治元年に病弱の一人娘の為に建てた別荘。
夜には小門の夜焚が望める風流な場所でした。
廃園になった理由はわかりません。
外から見た報済園。
ツタに覆われてオバケでも出そうです。
小学生の頃に知ってたら、
友達と肝試しでもしに行ったかもしれません。
廃墟ということなので、
入っていいのか悪いのかよくわかりませんが、
「進入禁止」とは書かれていなかったので、
恐る恐る進入しました。
・・で、坂を登ったらすぐに見つかりました。
「高杉先生七卿ト國事ヲ議セシ地」
と書かれています。
ただ晋作と七卿が、
ここで国事を語り合った記録はありません。
七卿ということは7人なわけで、
病没した錦小路頼徳や、
生野の変に参加した澤宣嘉もいるということ。
多分それはありえませんから五卿でしょうね。
全国的にも有名だった小門の夜焚に、
晋作が五卿を招待したのでしょうか?
それとも報済園に箔を着けるために、
晋作と七卿の名を使っただけかも?
とりあえず晋作には、
小門の夜焚で遊んだという事実はあります。
報済園は廃墟でした(当たり前か・・)。
訪問時は晴天でしたが、
やはり廃墟は薄気味悪いですね。
これが玄関のようです。
庭園だったらしきところは、
木や草が生い茂っています。
「明治天皇○○」と書かれた石碑がありましたが、
近づけす何と書いているか読めません。
明治天皇も来たって事??まさかね。
山手には鳥居もありました。
足場は草に覆われて、
ほとんど道が隠れてしまっています。
鳥居の先に「尊皇愛國」と書かれた石碑が・・。
小さなお堂がありました。
「天照皇大神」を祀ってたようです。
東屋のようなものもありました。
もっと奥に色々ありそうでしたが、
これ以上は断念します・・・。
相当な規模だったようですが、
人の手が入らないと見る影もありませんね。
下は昔の絵葉書ですが、
綺麗だった頃の報済園の庭です。
先ほどの鳥居がありますね。
その奥に石碑やお堂も見えます。
とても綺麗な庭園だったようです。
建物の中がどうなっているのか気になりますが、
先程の庭園から察するに、
きっと豪華な造りなのではないでしょうか?
実はもう一つ、
「高杉先生小門鑑賞ノ場所」
と記された石碑もあるらしいのですが、
残念ながら見つけられませんでした。
図らずも廃墟ツアーになってしまいましたが、
たまにはこういうのも良いでしょう。
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