青森県西津軽郡 津軽藩発祥之地

鯵ヶ沢にある赤石川中流に、
津軽藩発祥之地があります。
ここが津軽藩(弘前藩)発祥地とされるのは、
藩祖大浦光信の居城である種里城と、
その光信の墓所があるからです。

本来藩祖は初代藩主又はその先代ですが、
弘前藩では初代津軽為信の4代前の光信で、
その居城及び墓所は津軽家の聖地となり、
一国一城令後も保存されました。

種里城址」「津軽藩発祥之地」碑。
室町時代後期の延徳3年、
三戸南部家当主南部信時は、
久慈南部家南部光信を種里に配置し、
敵対する安東家の抑えとします。
これが津軽家の発祥とされ、
光信は津軽平野に進出して大浦城を築城。
大浦を名乗って津軽平定の礎となりました。

石段を登って種里城跡へ。

光信公の館」。
石段を登ると約8百本の牡丹が植えられ、
その先に光信の居館が再建されており、
発掘資料や資料などが展示されています。
光信は隠居すると大浦城から種里城へ移り、
ここで死去しました。


光信公之像」。
光信公の館の傍らにある銅像。
光信の法名は功樹院殿長勝隆栄大居士で、
菩提寺長勝寺は光信の法名に由来します。


本丸跡」。
本来はここに居館が建てられていたという。
発掘調査が行われて多数の柱穴が検出され、
現在は平面復元されていました。

本丸跡の西南には光信の廟所があります。

本丸跡より下るとそこは木々に囲まれ、
いきなり神聖な雰囲気が感じられます。


光信公御廟所」。
光信は大永6年に種里城で死去しますが、
下記のように遺言したとされます。
 将師として威厳を少しも欠くことなく
 甲冑を着し剣を帯び鎧透しの短刀をさげ
 腰に大螺をつけ立ったままの姿にして
 巽(東南)に向けて埋葬せよ
 これによって自分は神となって
 外国の敵が領内に侵入しないように
 万代までもここに留まりにらみを
 きかせていよう

光信は上記の姿で埋葬されたとされ、
墓石などは全く置かれず、
白木の柵以外はなにもありません。
不思議と雑草の生えないこの廟所には、
霊力があるとされて御霊のお墓と称され、
悪疫が流行した際にはここで祈祷すると、
たちどころにそれが終息したとされます。


奈良主水源貞親御墓所」。
奈良主水は光信の家臣で、
光信の臨終の際には、
汝冥途に先立ちて我に供奉せよ
と光信に命じられて殉死しました。
光信と同じく柵以外は何もない墓。
彼も甲冑姿で葬られたのでしょうか?

種里城は一国一城令の際も保存され、
御廟館と呼ばれて聖地となりました。
これは軍事拠点としての城ではなく、
墓所として残されたものです。
残念ながら遺構は破壊されたようですが、
現在は整備されて面影が蘇っていました。

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