池上本門寺にある西条藩紀州松平家の墓所。
「西条藩紀州松平家墓所」。
西条藩は紀州藩徳川家の支藩。
伊予に陣屋を持っていましたが、
江戸に定住する定府大名でしたので、
藩主は領地には入りませんでした。
従って歴代墓所は領地には無し。
ここにあるのは6代以降の藩主の墓で、
それ以前は山梨県の日蓮宗総本山久遠寺。
また2、5代藩主は宗家を継いでおり、
紀州徳川家の墓所長保寺に墓があります。
「壽徳院殿慈元盋林日忠大居士」、
6代藩主松平頼謙の墓。
紀州藩7代徳川宗将の六男に生まれ、
5代藩主松平頼淳が宗家を継いだ為、
西条藩松平家の家督の相続しました。
治水工事や新田開発を推進し、
20年の間西条藩を治めています。
「廣徳院殿一道壽林日盋大居士」、
7代藩主松平頼看の墓。
6代松平頼謙の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しますが、
僅か2年で死去しています。
「秀徳院殿慈善法潤日實大居士」、
8代藩主松平頼啓の墓。
6代頼謙の三男として生まれ、
兄の7代頼看が早世した為に、
その跡を継いでいます。
藩校択善堂の創設など文治に尽くし、
新田開発も推進しました。
45年の治世の後に隠居。
「智徳院殿滋行謙光日義大居士」、
9代藩主松平頼學の墓。
8代頼啓の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
文武の奨励に尽くした良君だったようで、
一時は宗家相続の話もあったという。
30年の治世の後に隠居。
慶応元年に死去しています。
「徳本院殿頼英義道日慈大居士」。
10代松平頼英の墓。
文久2年に家督を継いだ最後の藩主。
親藩ながら国許で藩論が勤皇に統一され、
頼英にお国入りを促していましたが、
江戸からは動きませんでした。
しかし鳥羽伏見の戦いの後に上京。
参内して恭順の意を示しており、
二条城々北猪熊口柵内警衛を拝命。
後に情勢安定が見られた為に、
初めて国許の西条にお国入りを果たし、
廃藩置県後は東京に移住。
明治38年に死去しています。
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