長州藩は直轄地を宰判という行政区に分け、
代官を置いて行政にあたらせていました。
宰判には勘場と呼ばれた役所が設けられ、
租税徴収、治安維持、裁判等が、
行われています。
初期の宰判は厚東郡吉見に置かれましたが、
御茶屋の移設に伴い宰判も船木に移動し、
宰判勘場と御茶屋が併設されました。
初期の宰判の政務は藩の役人ではなく、
村方三役が行っていたとされますが、
※大庄屋、恵米方、算用方の三役。
後に代官が赴任してきたようです。
「宇部市船木ふれあいセンター」。
船木宰判勘場が置かれていた場所は、
現在の宇部市船木ふれあいセンターの敷地。
「船木宰判代官所跡(左)」、
「船木宰判勘場跡(右)」。
敷地内のある跡碑。
代官所跡と勘場跡とややこしいのですが、
双方同じ船木宰判の役所跡の事です。
長州藩では代官所を勘場と呼んでいた為、
昭和15年に皇紀二千六百年記念で、
勘場跡の碑が建てられた後、
楠町制三十周年記念の昭和60年に、
改めて代官所跡の碑が建てられました。
敷地内に御茶屋跡標柱もあったようですが、
見当たらないので撤去された模様。
御茶屋は藩主の領内巡視時の宿所で、
船木宿に宿泊する大名の施設も兼ねており、
藩営の本陣となっています。
幕末の船木代官であった久保松太郎は、
吉田松陰門下であり外戚でもあった人物で、
行政家として優れた能力を発揮しており、
後に各地の行政官を歴任しました。
久保の在任中に下関戦争が起こっており、
講和談判中の高杉晋作や伊藤博文に、
停戦反対派の刺客が狙っている事を伝え、
金子を与えて逃がしています。
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