益田家4代益田兼高の次男益田兼信は、
三隅に移り住んで三隅城を本拠とし、
城下町を構築しました。
後に4代三隅兼連が三隅姓を名乗りますが、
兼連は後醍醐天皇の要請に応じ、
北朝方の足利尊氏と戦う事になります。
尊氏は高師泰に命じ三隅城を攻撃しますが、
兼連は百余日の激戦の末に撃退。
上洛して戦勝を報告していますが、
七条の戦いで壮絶な戦死を遂げました。
兼連の嫡子三隅兼知も討死しており、
家督は三隅直連が相続し、
宗家にあたる益田兼見に従属しました。
※後に三隅家は毛利家に反抗して滅亡。
浜田市三隅町三隅周辺。緑の線が街道筋。
青でぼかした辺りが三隅宿跡。
「三隅宿跡」。
現在の三隅は国道から離れており、
車の通りも疎らなようです。
宿場としての遺構は殆ど見られず。
本陣は海老屋牛尾家とのことですが、
どこにあったのかはよくわかりません。
「三隅神社」。
三隅兼連を祀る神社。
南朝に与して戦死したことから、
明治初期に忠臣として脚光を浴びた兼連は、
ここに祀られて祭神となっています。
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