江戸期の宍戸家当主の墓所は、
初代が防府市阿弥陀寺、2~4代が仙竜寺跡、
5~10代が貞昌寺にありますが、
江戸期最後の当主11代以降の墓所は、
熊毛北高校の北側にあるとの事。
これではよくわからないので、
熊毛総合支所地域政策課に連絡し、
その行き方を教えて頂いきました。
周南市安田周辺。熊毛ICからの行き方。
破線の矢印の道順を進み、
赤丸辺りの位置に墓所があります。
途中までは車で行けるのですが、
突き当りに車を止める事が出来ないので、
IC降り口にある駐車場を利用して、
少し遠いですが歩いて行きました。
山へ入ると一般の墓地となっているようで、
墓所を探すのに苦労しました。
奥へ行くと高校の裏手に出てしまいますが、
そこまでは行かない墓地中央あたりの、
最も高い位置にありました。
「宍戸家墓所」。
現在も使用されている墓所の様子。
歴代当主に比べ小さな墓碑となっており、
神道式の突状方柱型の墓が並んでいます。
「宍戸親基之墓(右2)」、
「宍戸朝子之墓(左2)」。
24代(11代)当主宍戸親基と継室朝子の墓。
23代(10代)宍戸元礼の嫡男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
幕末長州藩の筆頭家老として藩主を補佐し、
動乱期の藩政に尽くした他に、
領内の邑政改革を行い緩急に備え、
郷校徳修館での子弟教育を推進しました。
下関戦争の講和では高杉晋作が正使となり、
親基の養子宍戸刑馬として談判に臨み、
古事記暗唱を行ったのは有名。
勿論養子の件は方便でしたが、
筆頭家老宍戸家の名を使用する事で、
正使としての体面を作ったようです。
幕長戦争では家臣団を率いて芸州口に出陣。
諸隊勢の総大将として指揮を行いました。
維新後は三丘で子弟教育に従事し、
明治19年に死去しています。
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13代当主墓所。
・山口県防府市 阿弥陀寺/宍戸元続墓所
14代当主墓所。
・山口県周南市 宍戸家郷校徳修館
宍戸家の開設した郷校。