原江寺は周南市にある曹洞宗の寺院。
明治初期に創設されたお寺で、
廿日市の洞雲寺の末寺原始院と、
その末寺吸江庵の合併で誕生したもの。
「原江寺」。
原始院は洞雲寺四世興雲宗繁が開創したもので、
大内重清の実母追善菩提の目的であったという。
後に毛利元就の牌所にもなっており、
江戸時代にも隆盛していたようですが、
明治元年に再度焼失してしまった為、
久米秋本の吸江庵と合併して原江寺となり、
現在に至っています。
参道石段脇に数基の石碑があります。
「村井七之助翁」。
地元の功労者村井七之助の頌徳碑。
戸長や村長を務めて地元に尽くし、
櫛ケ浜に防波堤を建設した人物。
寛政10年に沈没した蘭船を、
苦労の末に引き揚げた村井喜右衛門は、
七之助の4代前の村井亀次郎の兄とのこと。
「笠水翁墓誌銘」。
周防の俳人小林笠水の墓誌碑。
門人が句碑として建てたもので、
後に墓誌銘が刻まれたとのこと。
他に浜田馬来や松尾芭蕉の句碑もありましたが、
風化で刻まれた文字が読めません。
「本堂」。
原江寺では毎年4月の第2日曜日に、
直径30cmの特大茶碗と特大茶筌を使い、
大茶盛り茶会が催されるとのこと。
原江寺墓地は本堂西側から北側。
明治初年に創建された寺院ではありますが、
吸江庵からの古い墓が多くありました。
ここに真田幸村(信繁)の遺児の墓があります。
「幸村幸晴君夫妻之塚」及び「関係者の石碑」、
「六文銭の刻まれた石仏」。
大坂の陣で徳川家康を追い詰めた真田信繁は、
力尽きて討ち取られ豊臣家は滅亡。
信繁は予め末子の佐太郎(幸晴)を部下に託し、
九州へ向かわせていましたが、
徳山沖で暴風雨によって船が沈んだ為、
乳母と共に富田平野浦で過ごしました。
その後、小倉藩細川家の家臣を訪ね、
3年程世話になりますが居辛くなり、
徳山に戻って教学院に潜伏。
※現吉祥院。
そこで刀鍛冶の技術を学び、
吉村幸晴と称して櫛ヶ浜で鍛冶屋を営み、
後に河村茂八の娘を娶り河村幸晴と改称。
農具の生産修理で繁盛したようで、
住居の近くの川が鍛冶屋川と呼ばれ、
架かる橋は鍛治屋橋と称されました。
真田家由来の鎧兜も残されており、
昭和の頃に展示もされたようです。
この墳は子孫によって建立されたもので、
脇の風化して文字の読めない墓のどれかが、
河村幸晴の墓のようです。
この墓地には上記した七之助、喜右衛門、
亀之助ら村井一族の墓もあるようですが、
見つけられませんでした。
上の写真中央に写る宝篋印塔が、
喜右衛門の墓ではないかと思いますが、
墓碑銘が風化して読めず特定できません。
※全く違うかもしれませんが、
村井家の人物の墓ではあります。
■関連記事■
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信繁次男の末裔は仙台藩士となりました。
・宮城県刈田郡蔵王町 仙台真田氏ゆかりの郷
仙台真田家の領地であった地。
・長野県上田市 上田城跡
真田家の居城であった上田城跡。