かつて平戸松浦家と大村家が、
勢力を争って戦を繰り広げていましたが、
お互いが平和的に境界を決定すべく、
天正14年(1586)に和議を行う事となり、
双方の代表者が舳ノ峰峠で落ち合い、
境界を決める会談を行いました。
そこで大村側は早岐までの領有を主張し、
松浦側は川棚までの領有を主張した為、
話合いの末にこの地を境界と決定。
江戸時代に入ってもこれが継続されます。
「番所峠(舳ノ峰峠)」。
かつては藩境碑あったようですが、
現在はバス停の標識柱が建てられています。
峠から北側へ200m程度下る。
「舳ノ峰番所跡」。
現在果樹園となっている場所が、
舳ノ峰番所のあった辺り。
この番所(口番所)は大村藩と平戸藩から、
双方の役人が派遣されたようで、
周囲に竹矢来を巡らし、
通行人を厳重に検察しとのこと。
「藩境舳ノ峯番所跡」。
果樹園の入口付近にある跡碑。
番所役人には土着の近藤家、八並家が務め、
この果樹園は今も八並家の所有とのこと。
近藤家は既に引っ越ししているようですが、
八並家は近くに現在も住んでいるようで、
その庭先に藩境碑が移されており、
現存しているようです。
吉田松陰は平戸への往路でここを通り、
「山を越えて又小坂あり、への峰という。
坂の頂きに大村領平戸領の境碑あり、
行くこと少しばかりにて門あり、
門内衛卒あり小銃三口、槍数根を備う」
と記しています。
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平戸往還の終点。