文化5年(1808)にオランダ国旗を掲げ、
蘭船に偽装した軍艦が長崎港へ侵入し、
出迎えた蘭人2人を拿捕。
この船は英国軍艦フェートン号で、
蘭人拿捕後にイギリス国旗を掲げ、
水や食糧の補給を要求しました。
長崎奉行松平康英はこの要求を拒み、
佐賀藩、福岡藩、大村藩に討払を要請。
しかし佐賀藩は経費節減の為、
無断で警備兵を減らしていた事が判明。
康英は急遽九州諸藩に応援を頼み、
その時間稼ぎに要求を受け入れ、
食料や飲料水を供給しました。
しかしフェートン号は物資を受け取り、
速やかに碇を挙げて長崎を出航。
応援の諸隊兵は間に合わず、
侵入船の要求に易々と応じ、
国威を辱める結果となっています。
この責で長崎奉行松平康英は切腹。
佐賀藩家老数名も切腹する事となり、
藩主も100日の閉門となりました。
※佐賀藩はこの屈辱を味わった為、
以後は海防政策を推し進めており、
軍備増強や近代化へと繋がりました。
この事件をきっかけとし、
国内で海防意識が高まる事となり、
幕府は長崎湾内に台場を造設。
今回訪問の魚見岳台場もそのひとつ。
「長崎台場跡 魚見岳台場跡 入口」。
長崎市南部下水処理場の脇が入口。
ここから三ノ増台場跡までは、
地図上では距離は無いのですが、
つづら折りの急な山道でした。
訪問の際には山登りの装備を整え、
覚悟して行って下さい。
「三ノ増台場跡」。
魚見岳台場は三段構造となっており、
この三ノ増台場跡はその最下部。
跡碑も設置されています。
更に登ると大規模な石垣が現れます。
「二ノ増台場跡」。
この二ノ増台場跡が一番規模が大きく、
多重構造となっています。
北側の低い位置には平場があり、
何らかの建物が建っていたと思われます。
その裏手には火薬庫が現存。
「石造倉庫」。
火薬庫に利用された石蔵。
危険物の火薬庫は石造でしたが、
他の建物は木造だった為に、
ここだけ現存しているのでしょう。
「一ノ増台場跡」。
更に高い位置にある一ノ増台場跡。
魚見岳台場は文化7年(1810)に、
福岡藩によって築造された台場で、
増台場と呼ばれる4つの台場のひとつ。
文化7年築造の台場が増台場で、
文化5年(1808)築造の台場が新台場。
それ以前の台場は古台場というらしい。
魚見岳台場は大規模な石垣が残っており、
苦労して登る価値はあるようですが、
ある程度の準備と時期の見極めは、
大事だと思われます。
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