山口県山口市 俊龍寺/足利将軍供養塔他

俊龍寺大内家家臣弘中氏の菩提寺で、
献珠院延楽寺と呼ばれたようですが、
大内氏滅亡後に荒廃していたという。
その後に毛利家家臣柳澤元政が再興し、
毛利輝元の命で足利将軍らや、
豊臣秀吉の供養塔を建て、
柳澤家の菩提寺としています。


俊龍寺」。
秀吉の法名は国泰寺殿雲山俊龍大居士
神号は豊国大明神だった事から、
豊国山俊龍寺と名付けられています。
元政は12代将軍足利義晴、13代足利義輝
15代足利義昭に仕えており、
義昭が織田信長に追放されると、
これに追従して鞆の浦に移転。
義昭の庇護を条件に毛利家に仕えますが、
後に毛利家が豊臣秀吉に臣従すると、
秀吉の直参家臣に取り立てられ、
1万石の所領を与えられるに至りました。
秀吉の死去後は毛利家家臣に復帰。
子孫は寄組士として続いています。


國泰寺殿雲山俊龍大居士位(右)」、
光源院融山道圓大居士台霊(右2)」、
霊陽院殿昌山道桂太禪定門台霊(左2)」、
慶壽院殿明室慈昌大姉尊霊(左)」。
境内にある豊臣秀吉、足利義輝、
足利義昭、慶壽院の供養塔。
慶長2年(1597)は足利義輝及び、
義輝の生母慶寿院の三十三回忌で、
足利義昭が死去した年でもあった為、
毛利輝元は元政に命じて法会を行い、
元政は彼ら3基の供養塔を建てました。
その翌年の慶長3年(1598)には、
秀吉も死去してしまった為、
輝元は再び元政に命じて供養させ、
元政は拝領した甲冑を埋葬し、
この五輪塔を建立しています。
元政は秀吉存命時は豊臣家家臣ですが、
輝元が将軍供養塔建設を命じた事から、
二人の主を持っていたと思われます。

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