常安寺は周南市大河内の曹洞宗寺院。
大河内領主粟屋家の開基とされますが、
詳しい縁起はわかりません。
「常安寺」。
山奥にありながら立派なお寺で、
綺麗で広い墓地から檀家も多い様子。
虎ヶ岳(標高141m)の登山口でもあり、
多くの人々が訪れるようです。
粟屋家墓所は本堂裏手。
「粟屋家墓所」。
寄組4915石大河内粟屋家(帯刀家)は、
毛利家家臣初代粟屋元種を祖とし、
2代粟屋元貞、3代粟屋元重、4代粟屋就貞、
5代粟屋就尚、6代粟屋元忠、7代粟屋就応、
8代粟屋就道、9代粟屋房種、10代粟屋親睦、
11代粟屋親忠(篤実)と続きました。
当主と思われる碑銘が読み取れたのは、
松岳院殿(4代就貞)、眞龍院殿(6代元忠)、
安常院殿(8代就道)、雲興院殿(9代房種)、
智徳院殿(10代親睦)。
記録によると初~10代の墓があるようで、
11代以降は不明とのこと。
粟屋家は毛利家の譜代家臣で、
この寄組大河内粟屋家を筆頭に、
同じく寄組691石の青景粟屋家、
他に大組5家と40数家の庶流があり、
藩内でも非常に繁栄していたという。
初代粟屋元種の墓と思われる宝篋印塔。
2代粟屋元貞の墓の可能性もあります。
初代元種は毛利家三代に仕えた功臣。
五奉行の一人赤川元保が粛清されると、
これに代わって五奉行に加えられ、
以後も奉行衆として活躍しました。
永禄12年(1569)の高嶺城籠城戦では、
市川局らとこれを死守。
その後も本願寺支援や備中攻めで活躍し、
慶長10年(1605)に82歳で死去しています。
元種の嫡男であった粟屋元信は、
備中国下加茂で討死してしまった為、
元種の弟粟屋元利の次男粟屋元貞が、
元種の養子となって2代の家督を相続。
毛利輝元の信任を得て活躍し、
豊臣秀吉から豊臣姓も与えられました。
関ヶ原後の毛利家減封の後は、
熊毛郡大河内村他1600石を与えられ、
以後の粟家家は大河内村周辺を領し、
禄高は4915石に至っています。
幕末の当主11代粟屋親忠は、
大田絵堂の戦いで撰鋒隊を率い、
奇兵隊ら諸隊と戦った粟屋帯刀で、
幕末長州史に重要に関わる人物。
彼の墓が不明なのは残念です。
親忠は明治21年に死去していますが、
それらしき墓は見当たりませんでした。
追記:[明治維新百年と熊毛町]によると、
※熊毛町文化財保護員会編。
この常安寺の他にも、
初、3、6、8~10代が海潮寺(萩)で、
2、4、5、7代が萩の常念寺(萩)と、
それぞれが萩の菩提寺であるらしい。
墓もあるかは判りませんが、
近いうちに現地で確認してみます。
2025/02/20
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大寧寺墓地にある寄組児玉家の墓碑群。
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寄組山内家当主の墓所。
粟屋帯刀の墓は畜生墓に改装されました。毘沙門堂を燃やした祟りのため
>地頭所徹郎 様
コメントありがとうございます。
返信遅れて申し訳ありません。
興味深いお話です!
確かに内訌戦の際に毘沙門堂を燃やしましたが、
寄組士当主がそんなことになったのですか??
詳しく知りたいです!!