京都府京都市 相国寺

相国寺臨済宗相国寺派の大本山で、
臨済宗の京都五山第二位の大寺院。


総門」。
相国寺通りを北上した場所にある惣門
天明8年(1788)の天命の大火で消失し、
これは寛政9年(1797)に再建されたもの。
相国寺はこの大火で多くの堂宇を焼失。
現存する建物はの多くは、
それ以降に再建されたものとされます。


勅使門(御幸門)」。
慶長年間(1596-1615)再建の勅使門
惣門の西隣にありますが、
こちらは消失を免れたようです。
天命の大火以前にも応仁の乱等により、
相国寺は4度も被害に遭ったとされ、
その度に再建を繰り返しました。


三門跡」。
礎石と基壇が残る三門跡
慶長14年(1609)に徳川家康が建立しますが、
こちらも天明の大火で焼失しました。


法堂」。
豊臣秀頼が慶長10年(1605)に再建した法堂。
日本の法堂建築としては最古のもので、
本尊釈迦如来坐像と脇持の阿難尊者像
迦葉尊者像は運慶の作とされます。


庫裏(香積院)」。
こちらも天明の大火で消失し、
文化4年(1807)に再建されたもの。


方丈」。
同じく文化4年(1807)の再建。

室町幕府3代将軍足利義満は、
自らの邸宅(花の御所)の隣接地に、
一大禅宗伽藍を建立することを発願。
現在地にあった安聖寺公家宅を移転させ、
永徳2年(1382)に相国寺を建立します。
至徳3年(1386)には京都五山に定められ、
その序列は第二位とされますが、
応永8年(1401)に義満により第一位に昇格。
義満の死後は第二位に戻されますが、
その後は隆盛して多くの塔頭を抱え、
第二位の寺格のまま現在に至ります。
幕末期は境内南西側を薩摩藩に譲り、
薩摩藩邸が建設されていますが、
この藩邸は後に京都府が所有。
後に売りだされたものを山本覚馬が購入し、
新島襄に譲られて同志社大学が設立され、
旧境内が基督教系の学校になりました。
相国寺自体も明治以降は困窮しますが、
伊藤若冲の[動植綵絵]を明治天皇に献納し、
金1万円の下賜されたおかげで、
境内を維持する事が出来たようです。

■関連記事■
京都府京都市 東福寺
 臨済宗東福寺派の大本山。
京都府京都市 建仁寺
 臨済宗建仁寺派の大本山。
京都府京都市 永源寺
 臨済宗永源寺派の大本山。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です