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つづき。
「大亨院殿独山高慎権大僧都」。
4代藩主藤堂高睦の墓。
3代高久は子に恵まれず、
末弟の高睦を養嫡子としており、
高睦は高久の死去に伴って家督を継ぎます。
治世では元禄地震や宝永地震、
富士山噴火などの天災に見舞われ、
大きな被害に遭っており、
この事態を打開する為に藩政改革を行い、
臣下の制度を改めています。
「大輪院殿智月高映権大僧都」。
5代藩主藤堂高敏の墓。
高睦の子は全て早逝してしまっていた為、
支藩の久居藩より高敏が養嫡子に迎えられ、
高睦の死去により家督を継いています。
宝永地震の後遺症で領内に凶作が続き、
藩財政は悪化し続けました。
高敏はなんとか再建を目指そうとしますが、
その半ばで疱瘡に倒れて死去してしまい、
高敏には子もいなかった為に、
藩祖高虎の血統は途絶えました。
「長空院殿智風高達権大僧都」。
6代藩主藤堂高治の墓。
藩祖藤堂高虎の弟藤堂高清の孫で、
一門藤堂出雲家3代藤堂高明の子。
久居藩3代藩主藤堂高陳の養嫡子となり、
僅か13歳で久居藩藩主となってましたが、
津藩5代藤堂高敏が嗣子なく死去した為、
18歳で宗家の家督を相続しました。
地震で荒廃した領内の復興に努めますが、
26歳の若さで病死しています。
「孝譲院殿経山高綸権大僧都」。
7代藩主藤堂高朗の墓。
藤堂出雲家4代藤堂高武の子で、
久居藩4代高治が宗家を継いだ為に、
代わって久居藩5代藩主となりましたが、
高治の死去により高朗も宗家を継ぎました。
奢侈を好んだ他に幕府普請にも参加し、
藩は多くの借財を抱える事となっています。
※高朗は隠居後の名で、
藩主在任時の名は藤堂高豊。
「到岸院殿円真高徳権大僧都」。
8代藩主藤堂高悠の墓。
7代高朗の四男として生まれますが、
高朗は6代高治の子藤堂高般を養嫡子とし、
高悠を高般の養子として定めていましたが、
高般が早逝した為に嫡孫となり、
高朗の隠居によって家督を相続。
勤皇に厚い人物だったようで、
率先して仙洞御所普請役を務め、
財政難に拍車をかけています。
「祐信院清峻高節権大僧都」。
9代藩主藤堂高嶷の墓。
7代高朗の長男でしたが、
叔父の久居藩6代藤堂高雅の養嫡子となり、
7代久居藩主となっていました。
しかし宗家を継いだ弟高悠が死去した為、
急遽宗家の家督を相続。
継続的に続く財政難を打開しようと、
数々の財政改革を打ち出していますが、
どれも失敗しています。
「誠徳院松巌高秀権大僧都」。
10代藩主藤堂高兌の墓。
9代高嶷の次男として生まれ、
久居藩11代藤堂高矗の養子となり、
家督を相続して12代藩主となりました。
しかし兄の藤堂高崧が家督を辞退し、
高崧の子藤堂高巽も早世した為、
宗家の家督を相続する事になります。
高嶷の改革の失敗を考慮し、
常に綿服を着て質素倹約に努め、
灌漑用水の整備や産業育成を推進し、
法令の整備や行政機構の改善を行った他、
藩校有造館も創設。
これらの改革が功を奏したようで、
藩財政は好転して領民の暮らしも改善され、
領民は高兌を大いに慕ったという。
高兌が病に伏した際には、
領民による高兌の御命乞が自主的に行われ、
神仏に願掛けをしたと伝えられますが、
その甲斐なく44歳で死去しました。
寒松院と同様に以降の藩主の墓所はなく、
染井霊園にあります。
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・三重県津市 寒松院/津藩藤堂家墓所①
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