奥の院墓地にある岡藩中川家の墓所。
「鬼瀬兵衛」と称された中川清秀は、
羽柴秀吉と義兄弟の契りを交わす間柄で、
本能寺の変後に秀吉に与していました。
賤ケ岳の戦いで大岩山砦を守備した清秀は、
猛将佐久間盛政の急襲を受け、
これを僅かな手勢で迎撃しましたが、
激戦の中で討死してしまいます。
その家督は長男中川秀政が相続し、
小牧長久手の戦いや四国征伐に従軍し、
秀吉に13万石を与えられました。
しかし天正20年(1592)の文禄の役で、
陣中での鷹狩りの際に敵兵の襲撃され、
秀政はあえなく殺されてしています。
中川家中ではこの失態を隠蔽し、
偵察していた際の襲撃での戦死と報告。
これが露見した為に秀吉の怒りを買い、
遺領を半減の6万6000石としたうえで、
弟の中川秀成に家督相続させました。
後の関ケ原の戦いでは始め西軍でしたが、
本戦の東軍勝利の報で寝返っており、
佐賀関の戦いで西軍と激戦を行い、
230名の戦死者を出しています。
これにより本領は安堵されて岡藩を立藩。
以降は廃藩置県まで続きました。
右側から、
「巍然院殿鐵心如山」、「碧雲寺殿圓翁宗鑑」、
「寶浄院殿榮松久山」、「巖祇院殿日新敬山」。
7代藩主中川久慶の墓、初代藩主中川秀成の墓、
4代藩主中川久恒の墓、9代藩主中川久持の墓。
※中央奥に見える五輪塔は別の墓域。
4代久恒は3代中川久清の長男に生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
領内での犯罪取締を強化した他、
藩士子弟への学問を奨励。
7代久慶は広島藩4代浅野綱長の四男で、
6代中川久忠の婿養子となり、
久忠の死去に伴い家督を相続しますが、
その翌年に病死しています。
9代久持は8代中川久貞の次男中川久徳の次男。
父が不行跡を理由に廃嫡されており、
久貞の嫡孫となりました。
祖父の死去に伴い家督を相続し、
8年の治世の後に急死しています。
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