奥の院墓地にある最上義光の墓所。
最上家は羽州探題を世襲する名門ですが、
室町末期にはその威光は衰えており、
出羽国内は各勢力が割拠していました。
11代当主である義光は勢力拡大を目指し、
諸勢力を破って版図を拡大。
中央の豊臣政権や徳川幕府に取り入り、
最終的に57万石の大大名となっています。
「昌國寺殿玉山白公大居士菩提」。
最上家11代当主(山形藩主)最上義光の墓。
義光は10代最上義守の長男で、
父との抗争を経て家督を相続し、
出羽国内の諸勢力への攻勢を強め、
次第に勢力を拡大。
後に豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、
出羽の所領を安堵されています。
豊臣秀次に愛娘駒姫を嫁がせますが、
秀次は謀反の疑いで切腹。
更に秀次一族の処刑が命せられました。
駒姫はまだ正式に嫁ぐ前だった為、
義光は必死で助命嘆願しますが、
駒姫は三条河原の露と消えます。
この為豊臣政権に不満を持った義光は、
関ケ原の戦いでは東軍に属しており、
慶長出羽合戦で上杉家と戦闘。
戦後の加増で山形藩57万石が立藩され、
義光は慶長19年(1614)に死去しました。
最上家では義光の死から9年後に、
お家騒動(最上騒動)の発生で改易されます。
57万石の領地は召し上げられ、
義光の孫最上義俊が大森藩1万石で再興。
しかし義俊は早逝してしまい、
家督は2歳の長男最上義智が継ぎますが、
幼少の為に5000石のみ相続が許され、
以後は交代寄合(後に高家)で続きました。
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