高野山奥の院墓地/薩摩藩島津家墓所③

奥の院墓地にある薩摩藩島津家墓所③
薩摩藩島津家の墓所は複数あり、
3~7代藩主墓所を島津家墓所①とし、
初~2代藩主墓所は島津家墓所②としましたが、
こちらの墓所には17代当主島津義弘や、
8、10代藩主の墓所があります。


薩摩藩島津家墓所」。
この墓所は比較的広い敷地ですが、
島津家墓所の中では一番古いと思われます。


妙円寺殿松齢自貞庵主(中央)」。
島津宗家17代当主島津義弘の墓。
義弘は15代島津貴久の次男として生まれ、
武勇の誉れ高く臣下にも慕われたという。
伊東家大友家との戦いで活躍し、
豊臣政権下では朝鮮に出兵。
朝鮮の大軍を僅か7000の寡兵で破り、
島津兵の勇猛さを知らしめました。
関ヶ原の戦いでは1000を率いて参戦し、
西軍が敗れる中で退却戦を展開。
多くの犠牲を出しながら帰還を果たし、
これが「島津の退き口」として語られます。
徳川家への降伏後に隠居して隠棲。
死去の際は13名が殉死しました。


左側より、
長壽院〇〇〇〇(解読出来ず)」、
三重石塔」、
大信院殿栄翁如證大居士」、
金剛定院明覺亮忍大居士」。
長寿院の墓、三重石塔
8代藩主(25代当主)島津重豪の墓、
10代藩主(27代当主)島津斉興の墓。
長寿院は義弘の家老長寿院盛淳か?
盛淳は「島津の退き口」で義弘を逃がす為、
義弘の陣羽織を羽織って影武者となり、
従士18名と共に討死しました。
その忠節に感謝した義弘が、
ここに墓碑を建てたのかもしれません。
※島津家に所縁ある長寿院は他にも、
 松平定行に嫁いだ長寿院殿が居ますが、
 他家に嫁いでいるので可能性は薄そう。

三重石塔は琉球から持ち込まれたようですが、
これについて詳しくはわかりません。
重豪は7代藩主島津重年の長男ですが、
重年は加治木島津家を継いでいた為、
宗家を相続する際に重豪に家督を譲り、
重豪は加治木島津家を継いでいます。
その後に重年に迎えられて継嗣となり、
父の死去に伴い宗家の家督を相続。
藩校造士館を創設して学問を推奨し、
自らも蘭学に興味を持ってこれを学び、
藩政において開花政策を行いました。
更に重豪は子沢山であった事から、
積極的に息子らを他家に養子に出し、
姫を大名へと嫁がせました。
特に三女茂姫一橋豊千代に嫁いでおり、
その豊千代が11代将軍徳川家斉となった事で、
将軍の岳父」として絶大な権勢を得るに至り、
高輪下馬将軍」と称されています。
斉興は9代藩主島津斉宣の長男。
父斉宣は祖父重豪の浪費に抵抗して、
後に強制的に隠居させられた事により、
家督を相続して10代藩主に就任。
重豪存命中は実権を握られていましたが、
その死後に新政を行うようになり、
逼迫する財政の再建に着手します。
これが大いに効果が出て財政は回復しますが、
嫡男島津斉彬に家督を譲ろうとはせず、
寵愛する側室お由羅の子島津久光を溺愛して、
久光を後継とすることを画策。
これがお家騒動(お由羅騒動)に発展しますが、
幕府の介入もあって斉興は隠居し、
斉彬がその家督を相続しています。


高麗陣敵味方戦死者供養碑」。
朝鮮の役による両軍戦死者の供養碑で、
慶長4年(1599)に6月に義弘と忠恒が建立。
日本武士道博愛精神の発露らしいですが、
なんだか武士道勘違いしてそうです。

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