山口県周南市 貞昌寺/宍戸家墓所

長州藩の筆頭家老家である宍戸家は、
毛利元就の中国制覇に貢献し、
吉川家小早川家両川に次ぐ待遇を受け、
毛利家減封後は代々筆頭家老を努めています。

吉川家は関ヶ原の戦いでの確執から、
藩内での発言力を失っており、
小早川家は豊臣政権下で独立していた為、
※小早川家は後に断絶。
 別家は吉敷毛利となっています。
宍戸家は必然的に一門筆頭となりました。

はじめ佐波郡右田を所領としていましたが、
16代当主宍戸就尚の代に知行替えが行われ、
右田から熊毛郡三丘に移っており、
以降は代々三丘領主として幕末に至ります。


貞昌寺山門」。
元々は大内氏の三丘嶽城のあった場所で、
この石垣は大手門のものだという。


確かに古城の石垣のような造りが散見。
この石垣は[穴太積]という石の積み方で、
近江の石工穴太衆による仕事のようです。


臨皐赤先生碑」。
不許葷酒入山門の石柱の近くにある石碑。
臨皐赤先生とは誰の事でしょう??
調べてもわかりませんでした。


本堂」。
家祖である八田知家の四男宍戸家政から、
23代宍戸元礼位牌が安置されています。

宍戸家の墓所は境内西側の小高い場所。

宍戸家墓所」。
18~23代当主の墓が建てられています。
※江戸初期の14代宍戸元続を初代とし、
 説明板では5~9代となっています。

それ以前の当主らの墓は少し北の仙竜寺墓所


墓所内。
綺麗に整備されていますが、
敷地的にはこじんまりとしています。

以下、宍戸家墓所の当主。

總光院殿空峯心等大居士 覺霊」。
18代(5代)当主宍戸就延の墓。
15代宍戸広匡の次男熊谷元実の三男で、
実兄で17代当主宍戸就附が早世した為、
宍戸家を継いで当主となりました。
筆頭家老として朝鮮通信使接待役
江戸城普請惣奉行等を務めますが、
徳山藩との不和により生じた万役山事件では、
特使として派遣されたものの、
徳山藩3代毛利元次を説得出来ず、
結果として徳山藩は改易となっています。
※徳山藩は後に4代毛利元尭が再興。
就延は46年の長きにわたり当主と務め、
80歳で死去。


天心院殿義翁尊孝大居士 覺霊」。
19代(6代)当主宍戸広隆の墓。
長州藩士熊谷就実の長男として生まれ、
叔父就延が死去に伴い家督を相続。
4代藩主毛利吉元の娘皆姫の輿入れでは、
筆頭家老として御輿役を務めました。
11年の当主在任の後に死去。


楨郷桔淡大居士」。
20代(7代)当主宍戸広周の墓。
長州藩士熊谷元貞の次男として生まれ、
伯父広隆の養子となり家督を相続。
6代藩主毛利宗広に男子がいなかった為、
長府藩より毛利重就が養嫡子に迎えられ、
重就が7代藩主となりましたが、
宗広は娘婿の毛利重広を養子とする事を遺言。
実子毛利治親を世子としたい重就は、
宗広の遺言に背こうとしますが、
これを阿川毛利家毛利広漢らと阻止し、
遺言に従い重広が世子に定められました。
しかし重広が病死してしまった為、
結局は治親が世子となり、
隠居謹慎処分となっています。


齢運院殿仁翁良壽大居士 覺霊」。
21代(8代)当主宍戸就年の墓。
20代広周の次男として生まれ、
父が継嗣問題で処罰された為に家督を相続。
郷校徳修館を設立して学問を奨励しました。
57年の当主在任の後に隠居し、
78歳で死去しています。


大隆院殿考運常觀大居士 覺霊」。
22代(9代)当主宍戸親朝の墓。
21代就年の長男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
文政近江地震普請奉行を務め、
幕府より白銀を賜ったという。


文恭院殿鳳褄俊徳大居士 覺霊」。
23代(10代)当主宍戸元礼の墓。
一門家老福原房純の次男として生まれ、
親朝の養嫡子となって家督を相続し、
安政2年に家督を嫡男宍戸親基に譲って隠居。
慶応3年に死去しています。

24代親基の墓はここにはないようで、
県立熊毛北高校の裏山にあるとのこと。

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