中国自動車道山口ICを下りた北側に、
かつて柊刑場がありました。
その跡地に数基の石碑が設置されています。
「柊刑場跡」。
柊交差点東側の坂道を登ると広場があり、
そこに碑や説明板が並んでいます。
柊刑場は長州藩が山口に藩庁を移した際、
処刑場となった場所。
倉敷浅尾事件の脱退隊士らも、
ここで処刑されたようです。
「脱隊諸士招魂碑」。
明治2年に奇兵隊を含む長州諸隊が再編され、
5000名のうち3000余名が論功行賞無く解雇。
従軍の功績は考慮される事はなく、
身分や役職で選別されており、
各地を転戦した平民出身の諸隊士は失職。
これに奇兵隊士の一部や振武隊、鋭武隊等が、
脱隊騒動を起こしました。
明治3年1月。脱隊した旧諸隊士たちは、
山口藩議事館(旧山口政事堂)を襲撃し、
交戦した旧干城隊を撃破。
その後に付近の農民一揆も合流し、
山口藩議事館を包囲しました。
この事態に木戸孝允が東京から帰藩。
木戸が自ら脱隊騒動鎮圧の指揮を取ります。
やがて脱退諸隊は鎮圧され、
首謀者らは捕らえられて斬首されました。
この碑は脱退諸士108名を慰霊する招魂碑。
「大村益次郎醫學記念碑」。
慶応3年にこの柊刑場で大村益次郎が、
この柊刑場で藩医学校山口好生堂の生徒に、
女囚の解剖を指導したとされます。
この女囚は母子2人を殺した罪を犯した女で、
執刀した医師伊藤生民は磔にされた女に、
「死んだらお前の体を貸してくれ」と、
予め頼んでいたそうで、
女は簡単に快諾したとのこと。
「長州五傑石」、
「大村益次郎顕彰石」。
長州五傑とは欧州に留学した5人で、
井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、
伊藤博文、井上勝の5人の長州藩士の事。
一般的には長州ファイブと呼ばれていますね。
それぞれ、外交の父(井上馨)、
造幣の父(遠藤謹助)、工学の父(山尾庸三)、
内閣の父(伊藤博文)、
鉄道の父(井上勝)と呼ばれました。
5人の有名な写真をイメージしたものですが、
なんら加工されたりしてない四角い石・・。
大村が彼らに渡航費用の調達斡旋したので、
その事を書いた説明板が設置され、
ついでに石を並べて長州五傑石としたようです。
後ろ側には大村益次郎顕彰石がありますが、
これもただの石・・。
5人を見守っている感じでしょうか?
お金を掛けない遊び心といった感じで、
嫌いでは無いです。
「戊辰戦役慰霊鎮魂平和祈念塔」。
新しく建てられた慰霊塔のようです。
他にも六地蔵などが建立されておりますが、
写真を撮り忘れてしまいました。
これらの碑や説明板は、
大村益次郎や福田侠平、長州ファイブなど、
偉人達の顕彰活動を行う団体大内倶楽部が、
建てたり整備したりしているもののようです。
※脱退諸士招魂碑は元々あったもの。
地元でのこういう活動は素晴らしい事で、
これから精力的に活動して頂きたいですね。
■関連記事■
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脱退騒動の際の激戦地。
・山口市 木戸神社
維新の三傑に似つかわしくない小さな神社。
・山口市 鋭武隊士今井六郎の墓
脱隊騒動の際に斬首された鋭武隊士の墓。